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~ Tran☆Ptan ~ 第11回 [~ Tran☆Ptan ~]

~ TranPtan ~

 

 

TranPtan(トラン・プタン)第11回は「Jean- Jacques Henner(ジャン・ジャック・エンネル)」フランス北東部アルザス出身の画家。19世紀末アカデミーの画家として活躍した。裸婦、宗教画、肖像画にスフマートや明暗法を用いたことで知られる。

 

No.11 of Tran☆Ptan .

The artist is Jean-Jacques Henner.He was born at Alsace,in northeastern French.He succeeded in an academiy in 19’th.  He was noted for his use of sufumato and chiaroscuro in painting nudes,religious subjects and portraits.

 

 

 

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喪神.jpg 

 

 

 

 (※クリックすると大きくなります)

 

 

 

磨硝子ぼんやりと蛾が咲いている  貴子

Frosted glass / a moss is blooming dully  -Takako

喪神をかの幻日の樹の韻き  夜想 

Parhelion / I heard echo of trees while being abstracted  -Yasow

 

 

それにしても、寒くなってまいりましたねえ。   たか

 


~ Tran☆Ptan ~ 第8回 [~ Tran☆Ptan ~]

~ TranPtan ~

 

 

TranPtan(トラン・プタン)第8回は「PaulKlee(パウル・クレー)」スイスの画家。表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特の作風で知られる。

 

No.8 of Tran☆Ptan.

The artist is Paul Klee,a Swiss painter. His style is original, neighther expressionism nor surrealism.

 

 

 



 サフラン.jpg

 

 

夜の柿.jpg 



 

 

 (※クリックすると大きくなります)

 

 

古る街へサフランライスさらさらす  夜想

 Saffron rice is rustling toward the antiquated town -Yasow

心臓の狂れはじめたる夜の柿  貴子

 A beating heart of Japanese persimmon go crazy in the midnight -Takako

 





 古い街の石畳はどこかしら懐かしい感じ。これから私も、私の「古る街」弘前へ、ちょっと、行ってきます。 

 


 


「永(なが)」2014年 現俳新人賞応募作品 [俳句archive]

久しぶりにブログ更新。

今年も、現代俳句協会新人賞に応募した。その選後評が、今日届いた「現代俳句」10月号に載っていた。

私の作品は今回も受賞を逃したが、第一投票では最高得点を獲得していた。これは初めてのことで、正直にとても嬉しかった。いつも、一人か二人の審査員が挙げてくれるだけで終わっていたから。

少し前、ツイッターで「句集を出した者が新人賞に応募するのはどうか」という話題を目にした。私にも該当すると思ったが、けど自分は何か公な評価を獲得したわけではないし、実は句集を出してもずっと新人気分のままでいて、自分はいまだ「誰かが面白いね、といって目に留めてはくれるが荒削りで安定しない創り手」だと思っていたのだ。

しかし、今回の選評をみると「安定した力量(だが弱い作品)」とある。

このことからすると、自分はもしかするとそれこそ、先のツイッターの話題で言うような「新人」だと思われないのかもしれない。新人の定義もいろいろあると思うけれど。新人らしい新人、ではない??

そうだとしても、やっぱり賞に応募するのは楽しい。作品をまとめていくのが、苦しいけど楽しいのだ。それに、賞というものも獲ってみたい。

 

2014年現代俳句協会新人賞応募作品、下に掲載します。みてください。著作権は放棄しません、と、誰かの真似をして申し上げておきます。

 

「永(なが)」  佐々木貴子

 

あけぼのの地をぶつぶつと蕗の薹

夕桜少女らは火を舐りあう

熱の子のしずかなひかり花の雨

蕊ふるや魚のくちびる仄紅き

夕雲に蝶の一重ののこりたる

一斉に玻璃のくだけて春の光

耳にある水位白木蓮の刻

木蓮の一室ごとの水死かな

金木犀千の咀嚼の夜宙なり

四月八日いろんなかたちの空がある

木蓮の夜の兵士のほろほろと

マーガレット無数の宙を病みいたる

人体の渦のなまめきたる白夜

骨壺の重心を透く夏の海

青葉病む風の十指の遊びかな

むらさきを繙いており晩夏光

水蜜桃眉はひらりと泳ぎだす

蓬髪の劫に靡ける天の川

てのひらに吹く満月の汚れ水

百億の骨片はしる星月夜

曼珠沙華あしゆびは火をなぞりつつ

ほろほろと鱗こぼして大花野

木枯や老女は車いすを駆り

胞衣ふかく埋もれており冬林檎

じわりじわり臍をしみだす雪の闇

寒の海に光はおちておるまいか

雪ふかき産道くだる一つ火よ

こなゆきや砂金は影をうばわれて

黄泉つ火の人にまぎれし雪夜かな

あおぞらの永(なが)をうきつづける針よ

 

 

 

御感想など聞かせてください。 佐々木貴子拝

 

 


吉村毬子句集「手毬唄」 [俳句鑑賞]

 

布張、箱入で和服のような雰囲気のある美しい装丁である。

栞文は安井浩司、志賀康、豊口陽子、福田葉子(敬称略)による。

現在LOTUS同人の吉村毬子さんによる第一句集より数句。

 

しづかな窪へ対岸の朝溢れ

海抱きの硬さとも白い夢とも

母を呼ぶ階段の下朱い雨

寒椿老婆唄へば山へ散る

蒼穹の笛の並ぶや死人華

階段に海の残光かなかなかな

水際の空葬(からとむらい)や昼の虫

唖蟬は夜の海へと膨らみぬ

新樹光鎖骨より溢れる泡か

晦の海を眇める山が綺麗だ

訥訥と漢は樹々へ縄の雨

少年や穀物袋の宇宙音

 

殊に

寒椿老婆唄へば山へ散る

蒼穹の笛の並ぶや死人華

少年や穀物袋の宇宙音

の3句は好きな句だ。

寒椿の句、きっと通常の読みとしては、散るのは「寒椿」であるととるのが普通なのだろう。けれど私には「老婆」自身が、唄うことによって、それを契機として寒椿のように散っていく景が浮かび、夢幻性を感じた。

蒼穹の句、明るく晴れわたった空のもと、あまた笛が並んでいる。「笛」には「ハーメルンの笛吹」など異形の存在への契機を示唆する面もある。死人花の姿が笛の形状とごこかで結ぶようでもあり、また、死人花の強い存在感が、「笛」の不穏な面をひきだし、鮮烈で印象的な絵を見せてくれる句だ。明るい青空に死人花の景色は誰しも見たことがあるものと思うが、言葉にならない不穏さがよくひきだされた作品と思う。

穀物袋の句、穀物袋を触ったりした時たつ、しゃんという音。少年が袋をおいた時その音がたつ。それが、宇宙音だというのである。宇宙を内包しているのは少年であろうし、穀物袋の中にもぎっしりと混沌の宇宙がつまっているのかもしれない。

私がご紹介した句は本作品集の中で比較的実景的で、シンプルな姿の句である。吉村氏の、しずかな光のなかに情緒の表われた作品にとても心惹かれた。吉村氏の作品にはこのような句風とは違って難解さの中に迫力のある句も、古代を感じさせる句も、また煌びやかな言葉の遊戯を感じさせる句もある。

 また、作者名、句集名両方とも「毬」の文字が使われてあり、作品集中「毬」をモチーフにした作品が多く見られる。作者が毬という文字にどのような思い入れがあるか、詳細を知ることはできないのだが、自分なりに想うことには「毬」というものは子供時代の遊びや懐かしさを示すとともに、どこか一人遊びの寂しさを想わせるものでもある。童心の寂しさである。

作者の毬を使った一句に

  毬つけば男しづかに倒れけり  吉村毬子

 

がある。これは不思議な句だ。

毬をついているのは確かに少女の意識であるのに、倒れる男はどうみても成熟した男である。少女が一人遊びに毬をついているとき、穏やかに手毬唄を口ずさみながら心中では様々な想が去来しているだろう。完全に一人の想の中に埋没している時、不意に大人に話しかけられて怪訝さや、敵意のような視線を向けてしまった一瞬を思い出すのである。あるいは成熟した女であって、同じく成熟した男と相対しているのかもしれない。成熟した女性の中からのぞいている童女の鋭い敵意、不意についた毬の一撃で、男はしずかに、倒れていくのである。

 

しっとりと古風で、手に重みの残る句集。

 

御恵贈有難うございました。


句集ユリウス掲載ブログ④ [句集「ユリウス」]



大分時間をおいてしまいましたが、ひさしぶりに句集「ユリウス」をお取り上げくださったブログや、「増殖する俳句歳時記」においてご鑑賞いただいた拙句を、併せてご紹介します。



みなさま、本当に有り難うございます。



 『ono-deluxe』小野裕三さん公式ブログ 関心空間



   http://www.kanshin.com/diary/13285356



 

 青山俳句工場05 工場長スパナ/宮崎斗士さん



  http://roundel9.rssing.com/browser.php?indx=6033991&last=1&item=2



 

 清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』

      (三宅やよいさんの御鑑賞による)



http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20140417&tit=%8Ft%82%CC%8C%8E&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%8Ft%82%CC%8C%8E%82%CC





皆様のご鑑賞をとおして作者自身が再発見をしている日々。



感謝致します。



              作者佐々木貴子



 



五十嵐秀彦句集「無量」、吉本宣子句集「木の春」 [俳句鑑賞]



 

 

五十嵐秀彦句集「無量」、吉本宣子句集「木の春」

 

 

 

 

 

五十嵐秀彦句集「無量」

 

平成25年8月刊行の著者の第一句集。

序文黒田杏子、跋文深谷雄大。(いずれも敬称略です)

 

北国の細か雪が厚く降り積もったかのように、しっとりと重たい感触のある句集。

著者である五十嵐さんは北海道の方、やはり雪の句が多い。私も雪国在住であるため、雪をどのように詠まれているか関心があった。

乾いて客観的な口調に静かな情緒、また社会や人生への目線が感じられる作品集。

(以下、句集「無量」より十句)

 

 

 

傷口の奥に雪野の陽の眩む

降る雪に重たき耳をふたつ持つ

月光の告訴満ちゐる口の中

ひとむらの荒地野菊の漂へる

眉を剃る女に雪の汽笛過ぐ

幻影となり父の声雪の声

靴底の雪剥がし黙剥がしけり

極月の鉄路知名の谷をゆく

かなしみにふれんと雪の穴を掘る

赤とんぼ無数失踪者無数

 

 

とくに下の二句に瞠目した。

 

月光の告訴満ちゐる口の中

靴底の雪剥がし黙剥がしけり

 

一句目、月光の明るいなかを一人歩いている。仕事帰りだろうか。仕事で何か諍いごとがあったのだろうか。人物はそのことを沈黙のうちに思い返しながら歩いている。口は堅く結び誰にも心情は話さないが、心中では先ほどの諍いごとがいよよ、煌煌たる月光とともに、かみ殺す口の内にふくれあがってくるのである。

二句目、仕事から帰り、家の玄関にて雪をはらう動作が想い起される。雪国の靴は底がスパイクで、複雑に入り組む迷路のような型に出来ている。厳冬下、雪はシルクのようにきめ細かく、踏みしめられると堅くしまる。玄関で剥がしたスパイクの底の雪は、複雑な型を残したまま、ぱらぱらと剥がれ落ちるのである。その雪の型があたかも、黙して語らなかったけれど心の中では鳴り響いていた、言葉の片々のようだ。

 

 

 

 

 

吉本宣子句集「木の春」

 

平成26年2月刊行の著者の第一句集。

序文中村和弘。(敬称略です)

こちらも、「無量」とは異る重たさのある句集。

どっしりと決まった有季定型に静かに抑えた情緒、そのなか一閃狂気の奔流が垣間見えるような作品集。

特に「火」を使った作品に着目した。序文に触れられてあるとおり、原初性を感じるすばらしい「火」の力と思う。

(以下、句集「木の春」より十句)

 

 

 

夏至の来てまつすぐな木の騒ぎ出し

舌噛めとささやきにくる月夜茸

八方に野火とびまはり父母の国

霧青し父はすばやく徘徊す

木の春を人の容(かたち)に耐へてをり

巫女舞の曲線ふやし空の澄む

十一面の闇雁の渡りけり

閻王や街はうすももいろの雨

雨乞ひのぴしぴし折れる炎かな

竈の火銀河は銀河色を噴き

 

 

とくに下の二句に瞠目した。

 

八方に野火とびまはり父母の国

竈の火銀河は銀河色を噴き

 

一句目、野火が飛びまわるとはなんと躍動的な光景だろうか。まるで火が自ずから意志をもっているように、あちこちへ生殖する様子が浮かぶ。父母の国は己がルーツである国、ととれようか。あるいは、心のどこかで安寧と憧憬を覚えている国、その原野ともとれるかもしれない。

二句目、竈の火は、銀河と組み合わされることによって非常に火勢が強くなったようだ。ごおと勢いよく竈の火が噴く。その様に生命のエネルギーを感じている。火が生まれるエネルギーは銀河が生まれるエネルギーと同一であるかもしれない。銀河は銀河色、竈の中のこの火にも銀河色がのりうつって、蒼くミルキーウェイ色の炎であるかのようだ。見たことのない炎の色。

 

 

 

 

 

今回は句集「無量」、また「木の春」について御紹介させて頂いた。

いずれも、静かな重みのある句集と感じました。

ご恵投真に有難うございました。

 

 

 

 


森須蘭句集「蒼空船」/古田嘉彦句集「純粋雨期」 [俳句鑑賞]

 

 

森須蘭句集「蒼空船」/古田嘉彦句集「純粋雨期」

 

 

 

 

今回二氏の句集を併せてご紹介しようと思ったのは、それが同時期に届いたからということもあるが、読んでいてどことなく似通う部分を感じたからである。

もちろん二つの句集には互いに全く異なる領域、異なる感性の部分が沢山ある。しかし今回は敢えて同じ質感を感じるところを抜き出し、並べてみたいと思った。

それは、特に古田作品を読んですぐに感じとれることであろうが、決して易解ではないという部分と、それでいてすんなり口から流れ出てきたような感じのするところだ。

森須氏の句集の方は、生活実感に即して感覚よく面白く、万人に理解され得る句がたくさんある。しかし、そういった句の中にたまに、おやと思うような奇妙な感覚の句が存在しているのである。

以下、二つの句集についてそれぞれ御紹介する。

 

 

 

古田嘉彦句集「純粋雨期」

 

真っ白くさらっとした紙に、銀で大きく「純粋雨期」と書かれてある装丁が美しい。

序文や跋文のないシンプルな構成。最後に筆者の後書がある。

俳句作品は、最初の方の頁は信仰告白または信仰にまつわる日々の思いといった2~5行の文が句に添えられてあるが、途中から俳句のみになる。

時折図示を用いたりなど、通常の一本書作品とは違う俳句作品群で、世間では難解といわれる部類に入るのだろうが、与えられた文字を目にしてゆくうちに不思議と、それこそ雨後の透明な空気のようなものを感じる。後書のあと空白の紙が7頁くらい連ねられているのも余韻を感じさせる。

以下、目を惹いた作品を下に御紹介する。尚、添えられた文や図示作品に関しては今回は御紹介せず、次回以降の機会にと思う。

 

 

曼珠沙華両手でさわり不可避な婚姻

溶けていく魚の一部となった菫と

ほどきにくい薇の文字ほどいて水銀燈

有翼の鐘撞き用通路=口腔  全開

トルコ石より早い蒼穹  遅い菫

最後は冥王星  線画も青痣も断わる

精液ゼリー  糸で吊ったガラス工房と

影ごとに猫置く六月  空気遠近法

葉脈の純粋住居がそよぐ浴身

秋の水に列車浮かべて睡眠の定義

全体は密林だが今度の青は女だ

 

 

 

 

 

森須蘭句集「蒼空船(そらふね)

 

表紙は白地に蒼を基調として、飛ぶ帆船の絵が描かれてある。帆船が大きな本の中に入っていこうとする印象的な絵である。序文を前田弘氏、跋文を川名つぎお氏が書かれている。

各章の最初の頁に作者森須蘭氏と、その娘さんでいらっしゃる二人の俳人高遠朱音氏、宮坂翠氏らによるイラストが挿入されてある。また、句集に使用されてある紙から仄かに香が立ちのぼってくるという凝った造りだ。

俳句作品は、母であり妻である女性の生活を想わせるような、それでいて感覚鋭く面白い作品が沢山あるのだが、その中から特にこの感覚は瞠目だな、易解ではないなと思うものを選び挙げてみた。

 

 

雪原の匂い溜め込む片乳房

鳥類図鑑開く肺の奥まで時雨

一斉に音を外してゆく桜

空蟬は土星の記憶

冬天の鍵穴濡れてゆく螺旋

月球儀なぞる中指の囀り

うなじより男出てゆく薄暑かな

いぬふぐり空に窪みの残るかな

雪催い鼻は静かな活断層

 

その他、下記の句に心惹かれた。

 

氷海を安全ピンが留めている

春愁へ直滑降の娘たち

ら・ふらんす ひとり吊り橋の真ん中

春の山長男どっさり育ちます

かたつむり一生水平線にいる

全員が卵抱えている憂い

金木犀の音満ちてゆく夜明け

人の世の虹に小さな傷があり

中空に水の形の銀やんま

 

 

 

 

俳句の中に難解といわれる一角が確実にあると思われる。

「難解セクション」は、鑑賞し合うという楽しみ方の土俵から外れたり、読まれてもそのままおかれてしまう、といったことが現在多いのではないか。

「わからない」の一言でその後の進展が絶えてしまいがちな「難解セクション」であるがしかし、実際には読み手はその句を見て「何も感じない」「全く絵が浮かばない」のではなくて、その句に関して鑑賞を披露したり説明することが難しいのではないだろうか。

今回ご紹介した二氏のうち古田氏の作品は信仰が軸になっており、そのなかで御本人の脳内にフラッシュした映像のようなものが連ねられている印象だ。

一方で、森須氏の作品は生活から汲みあげた感覚の句のなかに時折不思議なものが紛れこんでいる。言葉が平易であるだけにその謎は手ごわい印象である。

私も、うまい鑑賞などは出来ないけれど、それが出来るまでずっと自分だけで溜め込んでいるのはもったいない。刺激をうけた作品をここにみて頂き、沢山の方に実際に感じて頂きたいと思うのだ。

 

 

 

 

森須蘭様、古田嘉彦様ご恵投有難うございました。

 

 


合同句集「水の星」 [俳句鑑賞]

 

 

合同句集「水の星」は、実験的俳句集団「鬼」の20~40代から有志8人の俳句及び詩を集め一冊としたものである。

タイトルは鬼貫の一句「闇の夜も又おもしろや水の星」からとられたという。

8名の作家の句作品はほぼ、それぞれ100句前後(うち1名は詩作品を掲載)。また、それぞれの作家ごとに作品評やエッセイが付されてある。

以下、感銘を受けた作品を抜き出してご紹介したい。

 

 

 

 

 

髙勢 祥子「触れる

作品評

「身体」への関心  今井 聖

 

ねと言つてやはらかなこと雲に鳥

錆びてゆくものの味して花の雨

青蛙こどもは水滴のやうに

エスプレッソマシン鎮座す麦の秋

花火見にゆく群集のくろい髪

あたたかい手かも秋海棠を指す

唇に入る髪苦し冬の園

直線の多きコートを脱ぎ捨てる

 

 

1句目、「ね」という音のやわらかさに着目し、その微妙な感覚がすんなり表されているところに瞠目した。3句目、青蛙のみずみずしい青さを背景に、子供が大きな水滴に化してゆくような、静かな透明感を感じた。7句目も好きである。

今井聖さんの作品評に書かれてあるように、この方の100句には身体の部分が表われている作品が多く、それが触覚を中心に編まれているといった印象がある。触覚が表われているもののそれが決して厭味でもいやらしくも無く、うっすらと仄かなのだが、誰にも記憶に在るような皮膚感覚が鋭敏に捉えられてある。

 

 

 

田口 茉於「美しき箱」

作品評  

季節に触れる、わたしに触れる 三宅 やよい

 

蛇穴を出づメディチ家の黒簞笥

美しき箱送りあふ梅雨晴間

水蜜桃美しく眉ひそめたる

黒人霊歌遠くなるとき鳥渡る

 

 

2句目が一番好きだ。社会生活で、日本の贈答文化を実感する機会は多い。仕事や親戚同士の付合などで綺麗な箱に入ったお菓子を送り合う様を、誰もが一度は目にしているのではないだろうか。お菓子を入れた箱は、捨てるにはもったいないほど美しく、箱こそが主役なんじゃないかという気さえする。

「美しい箱」という大胆な省略が象徴性を生んで、単なる現代的な風俗を描いたにとどまっていないところがとても良いと思う。

 

 

 

井上 明惟子「ヌーン・シティ」

エッセイ 

余暇の遊戯ではなく

 

二匹目の腸落とす母の恋

つくしても春の闇より幸福よ

スッカーンと春の憂鬱投函す

吊皮の下の人間地獄図絵

一枚に幸福たたまれた五月

 

 

軽妙な語り口と現代的な事象が生きた作品群。

集中、なんとなく靴先を見ている感じ、己が掌をふっとみつめている瞬間を想わせる句があった。

ご本人によるエッセイ「余暇の遊戯ではなく」の最後を締めくくる一文を抜粋するに―「大衆性という漠然とした、得体の知れない場所で、大衆の中にいて俳句そのものを優雅にあやつれるようになった時、俳句が余暇の遊戯になった時、果たして私は、俳句をつくり続けているだろうか。」とある。

おおいに、共感するところである。

 

 

 

原 千代「慟哭」

作品評 

原千代さんのこと いがらしみきお

 

「宗左近先生に捧ぐ」と題した7句より

慟哭

春疾風細む肋骨爪弾けり

死の床の聲あたたかし春の虹

死の匂ひ狂気の匂ひ桃腐る

骨壺に納まりません星月夜

以後、詩作品と「阿修羅像」3句、「二〇一一年・春」6句

 

 

「慟哭」。宗左近先生の臨終に立ち会われた体験を詠まれたものだろうか。

人の臨終に際する慟哭が興奮を帯びて語られているように感じた。

例えば1句目の「春疾風」の句では衰え細む肋骨を爪弾いたりなどしているし、2句目では「死の床の聲」はあたたかく、しかも「春の虹」が見えている。

このように、受け止めがたいであろう死に際して明るいモチーフを合わせているところに、それだけに強い興奮と、狂気じみたような悲嘆を読みとってしまう。

先生に対する愛惜いかばかりか。ほぼ愛執に近いような強い感情を想ってしまう作品だった。

 

 

 

磯部 朋子「方位磁石」

作品評 

少女の仮面 三浦 郁

 

方位磁石

立春やモガ繚乱の本を愛づ

臨月の手足をひたす春の水

待合室妊婦らは満ち満ちて春

乳張つてきてたんぽぽの黄の濃さよ

炎昼や給湯室で乳しぼる

ほのあかき耳朶のうら走馬灯

冬の星指さすほどに増えてゆく

 

別れ告ぐ

月こよひ巨大団地は丘の上

春ともしなまなまとせし壁の色

(ほか、「少年と鳥」)

 

 

女性らしい華やかさ、活き活きとした言葉が眩しい作品群。 

妊娠出産―「方位磁石」、住み慣れた家を離れる時―「別れ告ぐ」、子の成長―「少年と鳥」と、100句を通して一人の女性の生の流れが読みとれるところが面白く、実感がある。

殊に「方位磁石」の項の、輝かしくも迫力のある妊娠女性の描写がとても良くて、春にぴったりの爛漫さだと思った。

 

 

 

角南 範子「永久歯」

作品評  

流行と永久歯  柳生 正名

 

ショールぬらぬら揺れて進化論

ヒドラゐる青き桜の散る夕べ

友の子に指吸はれゐる遅日かな

脇の下洗ひ春愁霧散せり

空の幸福受け取めて凧揚がる

漱石の脳ある校舎蟬時雨

背の骨の曲がりしところ秋来る

わたくしの本籍住所からすうり

 

 

この方の作品には身体を描いてかつ、大胆である様を想った。

ある意味で生々しいほどの身体を対象に捉えながら、そこに溺れずパキッと切り離し詠んでいるような感じだ。

1句目や2句目の感覚は、集中もっとも瞠目した作品で、不気味さ、かつ不穏さを湛えながら美しい色彩の絵となっている。そんな作品を羨ましく思う。

5句目「空の幸福」の句も好きだ。

 

 

 

菊池 麻美「白い庭」

紀行文+海外詠 

夕焼けに似た朝焼け

 -ラオス、三都を巡る旅

 

鱧食べて作り笑いをしていたり

良心がいたむ野菊が刺さっている

秋雨や火傷のあとのきらめけり

冬の夜や爪を磨けば白き粉

冬日さす洞のある樹になき樹々に

如月や詩集を包む薄き紙

 

 

物を即物的に捉えた作品が目をひいた。

4~6句目など、描かれたそれぞれの物が、かさかさと乾いた感じがする。色調もさらしたように淡くて生気が無い。そのようなものを見つめる目線は、どこか虚ろな、うすうすとした孤独を感じさせる。

3句目、秋雨のあとの路面が燃えるように輝いている様だろうか、それを痛々しい火傷のあとのように感じているところに、強く共感する。

 

 

 

橋本 直「エイチ」

作品評  

真摯・透明  深見 けん二

 

ゆつたりとレジ打つ春の薬剤師

情念と時間に於いて蛇苺

和船ぎぃと進み入道雲多淫

風鈴や舌噛めば血の流れ出る

紙の桃切れば出てくる戦神

ふだらくのあかりへあめりかしろひとり

海月浮く自閉の中に海をもち

残暑といふ四角い枠の抽象画

廃船のペンキの厚き天の川

出アフリカ犬はどこから秋茜

左岸に生まれ冬の月と渡る

湾曲の校舎は冬の有機体

限界までリクライニングする雪野原

 

 

ここまで女性の作品が続いてきて、最後が男性の作品となった。男女の別のせいとは限らないが、見た目の印象から異なる。

惹かれるけれども鑑賞が難しい、ということについて思う。

例えば3句目の「和船ぎぃと進み」の句。和船というもの、現在ではほとんど目にすることはないし、その言葉を句中に用いること自体がタイムトリップ的な効果をもたらすのではないか。それが入道雲の下動き出す景はおぼろながら描くことが出来るけれど、その雲が「多淫」となると、これは一歩進んだ創造となるように思う。

4句目、「風鈴」と「舌を噛む」の配合も、そういった光景は私達の体験の中にはないのではなかろうか。

読み手が体験から景を起こせない時、難解と言われ、鑑賞対象から外される、そういった現象がもしかすると、あるかもしれないと思う。

確かに鑑賞というよりは、句を読んで想像ないし創造するという楽しみ方の方がふさわしいのかもしれない。無理矢理に意味に落ちつけてしまうことは、こうした句群に対してもったいないことのように思える

9句目の「廃船のペンキの厚き天の川」は、そのままの景にとれる句だが、厚塗りのペンキで何度も補修され、いまは廃船となって静かにたたずむ船は、かつては銀河を旅してきたような想像を掻き立てられる。

 

 

 

 

ここ、青森でも桜はほとんど散ってしまったが、まだ八重桜や芝桜、チューリップが咲いていて、春の名残がきらきらしている。

稲田には水が張って、満々と青空を映していた。

そのような春の名残に、とてもよく似合う句集「水の星」だった。これを書きながら、それぞれの作家さんの感性をとても楽しませていただいた。

 

御恵投有難うございました。

 

 

 

 

 


つちふるや嫌な奴との生きくらべ  藤田湘子 [俳句鑑賞]

 

 

つちふるや嫌な奴との生きくらべ  藤田湘子

 

 

 

世の中は不思議だ。害を加える側が生き伸び、根をはっていく。

いじめられた方は自信を失い、自尊感情を損なって、ずっとずっと病みっぱなしになり、社会に出ていけなくなることだって少なくない。

いじめた方はどうかというと、余程の重大事件を起こさない限り「あの人は~~・・・」等と陰口をきかれることはあっても、例えば会社なら仕事を続けそれなりに社会生活を保っていけるし、学校ならば学業を続けられて、順調に卒業し学位をおさめるだろう。

一方で、加害された方こそが全てを失っていくことが世に少なくない。

 

私の知る限り世間は、清く正しく、積極的に加害などしないでやられた方よりも、我を出して出して人を己の我に巻き込んで、病ませるほどに力をふるった方が残っていく。

考えてみれば歴史だって、迫害し、邪魔なものを駆逐した側が好き勝手なことを語り続けた結果なのだから、やっぱりこの世はどんなに「法治国家」等と建前ぶってみても、根本的には品の悪い弱肉強食世界なのである。

 

この句の「私」にも「嫌だ」と思う奴がいる。恐らくどんな人間にも「嫌だ」と思う奴がいるだろう。利害の合わないところに対立が生まれ、必ずいつもどこかで「嫌な奴」合戦が繰り広げられているのだ。

「嫌な奴」のことを考えると善良な「私」は気持ちが引っ込みそうになる。こんな奴とは関わりたくないとばかりに、自分の方こそが社会から退いて、ひきこもってしまいたくなる。

 

しかし、そんなわけにはいかない。閉じこもってしまえばこの世では負け。どんどん縮小していくのは自分自身の生なのである。

世の中にはその「嫌な奴」のために自死までしてしまう人がいる。自死は周囲の人の心に大きな影を残す。友人や恋人、親や兄弟のように親身な間柄であったなら、ずっと心に重いものを抱え生きていくことも少なくないだろう。あるいは、当の「嫌な奴」の心にも、死をもって多少の痣を残すかもしれない。

 

しかし死とは、時間とともに記憶や感情が薄れていってしまうものでもある。記憶が薄れゆくこと、それが生きる人間の側の健全な心の在り様でもあり、生きていかざるを得ない人間には必然的な心の道理ともいえる。

誰かの死によって深手を負ったとしても、多くの場合、数年もすれば記憶は生者にとっておさまりやすい色調に褪せ、描きかえられて、人は死者を忘れることはないけれど笑って日々をすごす。

そのような様を見ると、どんなに馬鹿を見ても自ら死ぬのは損だと思ったりする。

 

この句の「私」も、生死までは考えていないとしても、やはり「嫌な奴」には負けまいと思っている。「嫌な奴」大いにけっこう。「私」もあなたにとっての、あるいは「嫌な奴」となって、どこまでも生きてやろうじゃないか。

非常に重い胆力を感じる中7下5である。

 

しかし、ここで、「つちふるや」だ。

「つちふる」とは春、空から砂塵が降ること。中国大陸の黄河流域の砂や土が春風に舞い上がり、海を越えて降りしきり、ときに遠くが黄色く霞んで見えること、霾曇(よなぐもり)のことである。

この句の「私」の前に黄色くもやもやした黄砂の大気がある。嫌な奴を思い、いやさ、己もしぶとく生きてやろうと思いながらも、「私」の胸に渦巻くものは穏やかではない。黄砂のように黄色く汚れ渦巻いている。

 

あるいは、この胆力をもって眼前の霾曇を吹き飛ばしてやろうという気概があるのかもしれない。

しかし、そのいずれであっても「生きくらべ」を決意する心境とは結局のところ、「嫌な奴」に強く意識がおかれてあるのであって、そこから自由にはなっていないのだ。

強くしぶとく、善良さを犠牲にしてまでも生きてやろうとたくらむ心持はたのもしい。

しかし、一方で果たして、これでいいのだろうか。

 

 

そんな、人間(じんかん)に生きるリアルな人間の様を思わせる句だ。

 


青山茂根句集「BABYLON」 [俳句鑑賞]

 

 

羽ひらく孔雀のごとき湯ざめかな

 

湯冷めの皮膚感覚。ひやひやと体表から温度が失われ、自らは無防備に裸体をさらけだしている。羽ひらく時孔雀は最も美しいが、同時に最も無防備な姿であろう。

 

 

青山茂根句集「BABYLON」には、力強さと格調のある句が多くみられる。

 

流氷は嘶(いなな)きをもて迎ふべし

螺髪(らほつ)へと流星還りくるころか

偶像は捨てよ胡蘿蔔(にんじん)太らせよ

絨緞の上に反乱をさめけり

上陸の夜を梟に迎へらる

まなじりのくれなゐ流れたり金魚

初夢のなか崩落の響きあり

 

 

 

敗北を表現した句にも、誇り高さが漂う。

 

夕焼の底に敗者は横たはる

落城のごとく毛虫を焼きにけり

 

 

闘いのなか追いつめられているような、切迫感を感じる作品もある。

 

恵方道までも火の粉が追つてくる

西へ西へと向日葵を倒しつつ

うばひあふなり誘蛾灯倒すまで

 

一体何に追われ、また、自らは何を追うのだろうか。

追うこと追われることは表裏一体であり、その背景に使命感ともいうべき意志の存在を感じる。

 

 

 

気力意志力、背筋を伸ばした姿の青山茂根作品であるが、時にふっと弱気の瞬間が現れることもある。

 

夕焼を処方されたる家路かな

もがき続けて縮む風船のなか

鍵失ひて空蟬へ帰れざる

突伏して泣く十月の卓布かな

 

現代女性は仕事や社会的地位に恵まれ、いまや男性以上の活躍が望めることも少なくない。男性よりも多くの選択肢があり充実した状態にあると、多くそのように信じられているのではないだろうか。

現代を謳歌する女性像はCMや雑誌で、ミューズのようなイメージで描かれる。だが、現実を生きる女性は決して、強く充実している一方ではない。時に競争社会に疲れ、自己を見失うこともあるだろう。社会人としての理想が高くあればあるほど、もがき、立ちはだかる壁に打ちしおれることもあるだろう。

強く気勢のある作品群のなかに時折現れる「弱さの一瞬」の句は、現代女性のそうした一場面を想わせるのである。

 

 

 

句集「BABYLON」の一つの特徴として、紀行文ならぬ紀行俳句-旅行先の様々な国の俳句-があろう。その中には北方の句もあるのだが、筆者には南国の句がより鮮明に目に飛び込んできた。これは筆者が北国の人間だからこその視点かもしれない。

 

鉄兜ほどの椰子の実芽吹きをり

パラオ

百獣の闇をはるかに夜食せり

マレーシア

新絹(しんぎぬ)に極楽模様尽くさせよ

ベトナム

踊子の先に砂上の都市あらむ

モロッコ・タンジール

風葬の一族にして夜業人

沖縄・阿嘉島

ドル建ての水をあがなふ星月夜

ベトナム

飛行機を降りて夜食の民の中

ベトナム・ニャチャン

 

 

このように国名が記されてある句以外にも、目くるめく鮮やかな色彩や光の氾濫、熱い空気を感じる作品があった。

 

西瓜割れば赤き夜空と出会ひけり

万華鏡の中を旅せば夜店かな

 

 

一方で、廃墟のような風景を描写する目線も興味深い。

 

虎落笛(もがりぶえ)死せる珊瑚のごと街は

浴槽の捨てられてゐる海市かな

 

 

 

力強く格調高い女性の俳句、精力的に駆けまわる旅行の俳句、そして独特の感覚の鋭さを感じる俳句。

様々な要素の交錯する句集「BABYLON」、なかでも筆者が一番感銘を受けた句が下記である。

 

 

睡蓮に幽閉の空ありにけり

白象とおもふ時雨の山並は

囀りや大陸は箸長くして

サンドイッチはらり倒れててふてふよ

 

 

 

 

句集の最後、物語の締めくくりのようにある一文が印象深い。

 

 

砂上に落ちた、一枚の青い陶片のように。

 

 

私はこの一文が、集中の俳句と同じように好きである。

使命感を帯び疾走する魂が、生を終えて青い陶片となり、砂上に落ちる。

流砂の中に鮮やかに、生の断片のような青い欠片。

後の世の誰かが旅の途中でそれを見つけ、物語を想うのだろう。

 

 

果たしてBABYLONに到達したかどうかは問題ではない。それを指し歩くためのBABYLONなのだと、思う。

 

 

 

御恵贈、真に有難うございました。