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おひさしぶりです。 [なんとなくの話]

最近、なにもアップしていませんね。

今年度は忙しすぎてほとんど何もできなかった。。。

次の年度はまた、ぼちぼち何かあげていきたいですね。

今年の冬は、あたたかかった。

例年になく雪ももう、解けてきています。

雪が大変だったのは実質、1月と2月だけ。

毎年こうだったら、とても楽なのにな(笑)

 

 


太陽の暗部 [なんとなくの話]

目が覚める直前に見ていた夢が面白かった。

自分は一人暮らしにはもったいないほどの広い部屋を与えられた。

ベッドなど調度を整え人気がないけどマイペースな生活を始める。

けれど、大切なのはPCである。

夕暮過から夜の暗い中でだったか、PCの前にじっと座り、画像を矯めつ眇めつみてクリック、クリックしている。

それは太陽の写真である。

漆黒の辺縁の真中に強烈に橙の太陽が浮かんでいる。その画像にものすごく掻きたてられて見入っている。

画像の一部をクリックすると拡大画像が現れる。

太陽と黒い辺縁の境目を指した時はそのクローズアップ写真。黒と橙の強烈なコントラスト

うっかり間違って太陽の中そのものを指してしまうと、ぐらぐらと恐ろしい橙の光が現れる。

光の凹凸であり、時折静止画像ではなくて光の運動が現れる。

その恐ろしさに見入りながらも、エネルギーがPCを乗り出して、画面が壊れるのではないかと恐ろしくなって、

慌ててまた、別のポイントをクリックしてみたりする。

太陽の真中も、辺縁の暗さもどちらも怖いのである。が、強烈に掻きたてられて眼が離せない。

そうやって延々と、太陽の画像をみている夢。

こんなふうに時々、夢の中でしかみられない画像が現れる。

とても印象的で、書き留めたくなるのだ。


えっ、そこで英語なの [なんとなくの話]

これもまた思いだし話。

先日ツイッターで、俳句の音韻分析の話題がでていて、ふと。

やはり十代のころだが、変だなと思ったことがある。

それは尾崎豊の歌とか、他にもいろいろ聞くと分かるけど、

日本のポップスは要所要所に意味不明の英語が挿入されてあることが多いのだ。

たとえば I love you

たとえば Dancing all the night

 たとえば トゥナイヤヤヤヤヤ ティヤ(ちがうか)

でも言いたいことは分かるだろう。

かなりの割合で、いきなり英語。

ものすごく不思議に思ったので、友達にも話題をふってみたのだが、

全然乗ってもらえなかった不完全燃焼の思い出だ。

私は真面目なので(コラ)一応英語の楽曲でもこういうことがないか検討してみたが(僅少)

英語の歌にはこういう現象はなかった。

Wooo, Yeah... ときていきなり「アイシテルウ~」と日本語で熱唱することは無かったし、

「イ~ア~ルサン~ス~」と中国語が爆裂することもない。

これ、なんでなんだろ。

こういうの日本だけなのかな、と思っていたのだけど、 

もしかするとアジアの現代歌全般にこういう傾向があるのかもしれないし、

アジアだけでなくて英語を使わない国々の歌はこういう手法を用いているのかもしれないけど

それにしても、なんでだ。


遺跡ふえつづける [なんとなくの話]

むかし

社会の授業を受けた時不思議に思ったこと。

なんで先生は〇〇の遺跡の話を自慢げにするんだろう。

 そしてなんで遺跡をとっとくんだろう。綺麗だからかな

そんで遺跡はつぎつぎ増えるのだろうか。

遺跡がつぎつぎ増えたら地球が狭くならないのかな。

単純な演繹で、時間を経れば経るほど積み重なっていくように思えた。

遺跡が増えすぎて生きてる人が住みにくくならないのかな。

へんだなあ。

 と、ぼんやり考えていた思い出


髪洗いの断崖 [なんとなくの話]

私は思考実験をするのが好きだ。一人SF遊び。

十代の多感な頃にふと思ったことがある。

私は今こうして通学路を歩いている。

隣には友達がいて自分はトレパンを穿いて、末枯れの草々が空き地に項垂れ、この世界が自分という一地点を中心に縦横に広がっているのだ。そのはずだ。

しかし、とふと気付く。

私が見ているのは眼前だけだ。後ろは知らない。

後ろに広がっているいつもの住宅街の風景を、私は無意識に前提にしている。でも本当は自分の後ろで見えない背中で、真っ暗な断崖が広がっていたらどうする?

この発想としばらく一緒にいた。

 私が向く方向を変えると断崖も私の背中にくっついて方向を変え、私の後ろは本当は常に真っ暗な断崖なのではないか。目の前に見える風景はいつも自分のビジョンにだけ用意された映写機なのではないか。自分は自分にだけ見えている目前の映像、スクリーンを常に真実であり世界に共通するものとして錯覚し捉えているのではないか。 

家に帰り髪を洗う時下を向いて眼を閉じた。無論、真っ暗になった。私が無防備なのをいいことに世界は、真っ暗な断崖に豹変し、私はただ尻という一点で突端にくっついているのではないか。

 眼を開けると世界は私に風景を用意する。私はそれを真実であり上下四方に通用しているものだと錯覚する。

結局自分は目の前に用意されたもの、あるいは自分が用意したいもの、信じたい世界をただ再生しているだけなのかもしれない。

背中の断崖はついて歩く。しかし、絶対に自分を陥れない。

中学の頃、そんなことを考えていた。

ふと思い出したので書いてみる。


白と黒に関する考察 [なんとなくの話]

白というのは、他の色に混じって、しかし決してその粒子自体は消滅しない。

時を経て再び結実し、粒となって混合物から分離し、現れる。

例えて言えば、砂金や、露玉が忽然と現れるようなかんじ。

混じり合っていた他の有色要素の中から、少しずつ浮き出し粒立ってくっきりと球になるのだ。

白はあらゆるものを弾く。消えたようでも消えていない。



一方、黒はぼんやりと周りから覆っていくような感じがする。

黒の気体がだんだんと濃くなって真闇になるのだ。


白は透さない粒子、黒は気体。






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