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蝶と犀とのお花見 [俳句論]

俳句の中によくつかわれるモチーフがある。

蝶とか、犀とか。

蝶はもう、頻出だろう。

犀はともかく、蝶は誰もが一度は見たことがあり、実物を知っているだろう。

一方で犀は、動物園で実際に見たことのある人もいるかもしれないが、

テレビ番組や図鑑等で目にすることが多い動物だろう。

犀に関して言えば、自分は実物を知らないのに犀をつかった俳句を書きたがったり、犀が描かれた句を読んでなんとなく解釈したりしている。

自分に限って言えば、完全に「犀のイメージ」だけで句を読んでいるのである。

一方で蝶は、先述したように非常に多くの人が一度はその実物を目にしている。

しかし、様々な俳句にこれだけの蝶の頻出、蝶は現実存在としてのそれを超えて、

イメージの飛躍のもとにつかわれている、と感じる。

これだけ人の想像力を刺激する、もしくは「イメージ力」のある

蝶なり犀なり、その動物のもつ象徴性に感心するとともに、

一寸、これで果たしていいのかと思ったりもする。

詠む側も読む側も、蝶や犀を用いるとき、ほぼ無意識のうちにつかっていることが多いのではないか。

つまり、自分がここに書いている(または読んでいる)「犀(ないし蝶)」は、はて、物語や写真のイメージを基にしているのかいな。

そういうことに自覚的な場合もあれば、知らぬ間にイメージだけで書いている場合もあるだろう、と感じるのである。

別な動物を例に出せば、白鳥はどうだろうか。

自分は海辺の町に30年以上住み、毎年嫌というほど白鳥を間近にみている。

現実の彼ら彼女らは、意外と美しくない。

しかしそのことを知っていたり、現実の姿を強烈に覚えてしまっているのは、

私のように白鳥飛来地の海辺に住んでいる者だけかもしれない。

他の温暖な地域の方は、「白鳥の湖」など、詩や物語から受けたイメージをもとに

白鳥の句をつくるかもしれないのである。

念のために申し上げると、決してイメージをもとに句をつくることを否定しているわけではないのである。

そうして書かれた句も十分に面白いものがたくさんあるからだ。

しかし、イメージをもとに詠み、読みあっている場合の「それ」は、一体どうしたらいいのかという漠然とした疑問をもっている。

なにより、言葉はどこへ行くのだろう?

率直に物を表すのが言葉だとすると、読み手はそれをつかって創作した作品からさらに多様なイメージを受け取るだろう。

言葉によって創作された作品を読み合うことによって、その言葉のイメージは二次創作されていく。

その二次創作された言葉のイメージからさらに句がつくられる。

句として跳躍の可能性を感じるとともに、それでは、言葉そのものはどうなっていくのだろうか、と。

この疑問には当分答が出そうにない。

うーん


現俳協 俳句バーサス視覚VS聴覚 レポート②後半 [俳句論]

(後半のはじまり)

司会者田島さんより

ここまで視覚聴覚について各論話されたことを踏まえ、改めて俳句にとって重要なことはなんだろうかという問いかけがあり、

 

 

九堂夜想さん

 

もろもろ書手の立場、読手の立場からの論があったことを踏まえたうえで、しかし最終的に自分は、重要なのは言葉であると思う。単に視覚的に、ということではないが、「書かれた言葉」が重要であると思う。

それが書かれた過程や心情ではなく、書かれた言葉(=エクリチュール)そのものを見て読手は読む、汲み取る、そこで(読んで鑑賞の中で心や頭の中に)音が鳴るかどうかは人それぞれであると思うが、書かれていたのがオノマトペであっても楽器という言葉であっても、人は「書かれたこと」を見、そこから喚起する。

 

 

再度、感覚としての視覚聴覚の話へ戻ります。

四ッ谷龍さんのお話の続きへ

 

 

四ッ谷龍さん

 

共感覚(一種類の刺激から異なる種類の感覚を生じさせる知覚現象。文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりするなど)という感覚があるが、まさにそのように、感覚とはもともと繋がっているものだと思う。ゾウリムシなどの原生的な動物は視覚も聴覚も分かれていなかった。それが発達もしくは退化によってで分化した。

そのように、感覚をまたがる感覚というものがあるのではないか。これは19世紀末からある文学の一つの重大なテーマであり、これから俳句で開拓されるべきことはこの、クロス・モダリティ(=感覚を跨ぐ)ことではないかと思う。

 

クロスモーダルな(感覚をまたがる)句の例として

○敷石をしろがねとしぬ落葉掻 斉木直哉

○天網は冬の菫の匂かな 飯島晴子

○空海の筆跡のごと汗ばみぬ 冬野虹

○蛋白石(オパール)の中なる水もぬるむなり 関悦史

がある。こうしたクロスモーダルな句はあまりない。配合や、同一モーダルでの広がりや、擬人法、寓意とは似てはいるけれども違うものである。

このようなクロスモーダルな句は、脳を中心としたピラミッド的な世界観を崩し、感覚とは自由につながるのだということが感じられ、大変素晴らしいものだと思う。

 

 

 

小山森生さん

 

聴覚は直接的・身体的なもの、視覚は経験的なもの、論理回路を通って伝わってしまう気がする。

例えば実際生活で、悲鳴には反射的に反応できるが、悲鳴が起きたその現場を目にしても理解と反応に一定の時間がかかるのではないか。

自分は俳句を詠む時でも、直接身体に訴えたいときは聴覚、音韻を利用しており、一方、視覚は経験など過去のものと結びつき、迂回しているところがあると思う。

例えば「家電」という言葉も、音で「KA DE N」と聞いただけでは何のことか分からない。表記で見ると分かる。日本語をローマ字表記にしたらまったく、何のことか分からないだろう。日本語は表意文字であり、視覚的に訴える要素をもった文字ではないだろうか。

 

 

 

ここで改めて俳句にとって必要なものは、という疑問が提示され、それに対し

 

 

九堂さん

言葉である、とし、言語、エクリチュールについての理論。

 

それに対し関さん

言葉ではなく、シンボルによって支持された、実体と対応していないイメージである、とし、ラカンの「想像界、象徴界、現実界」の理論。

 

 

筆者、音声データを聞きつつも、聞取力(聴覚)不足、理解力(脳みそ)不足、により、上記の言語やラカンに関する哲学的論理的考察は、ここに記すことができませんでした。

ただ、こうした九堂さん関さんのやりとりの中で、関氏さんが九堂さんの俳句を二句取り上げ、一方を成功例、もう一方を失敗例として論じ、作者である九堂さん自らがそれを板書するというちょっと面白い事態があったので、記しておきます。

 

九堂夜想

(関さん成功評) ホネガイは漂う少女群島を

( 〃〃 失敗評) 日()の沖へ合掌泳ぎの王母らよ

関さん曰く、失敗句の方はすべてが視覚イメージに集約されてしまう、とのこと。

句の鑑賞は人それぞれなので、ここはあくまで例として、筆者は挙げたいと思うのですが、それにしても会の中でこのようなやり取りの起こるところが、ちょっと面白いなと思いました。なかなかないのでは。

筆者としては、失敗句の方も面白いと思うのです。日の沈む、あるいは昇る沖へ向かって数多の王母らが一斉に合唱しながら立ち泳ぎする景。視覚イメージで表しきれるのかもしれませんが、その景の意味するところは不明です。絵で表しきれたとしても、謎がある。そこに吸い込まれるようなところが、面白いと思います。王母という言葉が、単に「王の母」という意味だけではなく「亡くなった祖母」を表す点も、そしてそれらの人物が複数いるらしい点でも、まるで黄泉と現実の狭間(トゥオネラ)の風景のようだなと思うのです。

 

 

最後に、参加者の方からの興味深いお話しを―。

 

発達障害の子供に接するうえで、視覚の方が簡単であり、聴覚の方が上級です。紙で書いて示す方が簡単に伝わり、それができるようになってから聴覚で伝えることを教えていきます。

耳で聞いて言葉を理解する方が難しいのです、いろんな可能性を含めてしまうからです。

何をどうするのかちゃんと伝えるには書かれた文字の方が有効で、聞き言葉は、より常識(共通認識)が幅を利かせる世界なのではないでしょうか。

 

 

聞き違いがあるかとは思いますが、概ねこうした趣旨だったように思います。

筆者もこれには共感するところです。例えば英語を聞きとる際に感じることですが、言葉は発音される時、一つの音声の流れであると思います。それを「言葉」として把握するのは、その音声を「どこで区切るか(単語として)」にかかると思います。

「あえいおうかこうとな」

このような一連の音声があったとします。どこにスラッシュを入れて、語として区切るべきでしょうか。そこには、習慣として刷りこまれた、ある意味偏見としての言語常識が必要になってくると思うのです。

他、筆者としては、耳で聞いてすぐ意味のとれる句、良い例として「コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希」などは、非常に記憶に残りやすく、多くの方に親しまれやすい特徴があるように思ったのですが、こうした点についてはまた機会がありましたら改めて、と思います。

 

以上で、現代俳句協会勉強会 俳句バーサス 視覚VS 聴覚 のレポートを終わりたいと思います。

一番初めにも述べたとおり、音声データを頂いたうえでの筆記ではありますが、私の聞取り力、理解力という限界の範囲内でありますし、それぞれのパネリストの方の発言を伝えきれていない面、誤解している面など多々ありましょう。また、もっと議論の枝葉が伸ばせるであろう点も多々見られます。

それら各論は、優秀なパネリストである俳人の方々の発信に、お任せし、期待していきたいと思うのです。

 

会の後に九堂さんから、今回は惨敗だ!との感想があり。謙遜だろうとは思いますがやはり、テーマが漠然と大きすぎたために、各パネリストの皆さん、司会の方も、どのように進行したものか大変だったろうと思います。

 

参加者の方は女性が多く、ここに書ききれませんでしたが、沢山の興味深い発言がなされました。

感じたことには、もしかすると五感刺激に細かく敏感な感受性をもつのは男性よりも女性の方に多いのかもしれない、ということです。

同じテーマでもパネリストが女性であったなら、哲学的な方向ではなく、もっと違った、感覚としての話、具体的な刺激にどう感じ、どう影響されるかの話になったのかもしれません。

 

新たなパネリスト、テーマ設定を絞ってみたりなど工夫したうえで、

再度この「感覚」のテーマに取り組んでみても面白いのではないか。

そんなふうに思っている、筆者でした。

 

 

皆様、お疲れさまでした。そして、有難うございました、

 

                H25.9.16 佐々木貴子


現俳協 俳句バーサス視覚VS聴覚 レポート①前半 [俳句論]

現代俳句協会青年部勉強会 俳句バーサス 視覚 vs 聴覚

日時 2013年8月3日 13時30分~16時30分

場所 池袋勤労福祉会館第三、第四会議室 

 

パネリスト

視覚側   小山森生 九堂夜想

聴覚側   関悦史 四ッ谷龍

司会    田島健一

(敬称略)

 

 

 

もう一月以上前になりますが、現代俳句協会勉強会「視覚VS聴覚」に参加してきました。

視覚・聴覚という大きくて漠然とした範囲を取り扱うため、議論が哲学的で難解な方向にいってしまうのではないかという危惧、また、バーサス構造に適している話題かどうかという疑問が示されながらも、各パネリストの真摯な議論が戦わされ、また、参加者から非常に興味深い話が出されました。

筆者は、会を終えて直後は内容をまとめきれず、時間が経過するうちに記憶もだんだん薄れてしまって書けずにいたのですが、青年部のご協力を得て音声データを頂いたうえで、このレポートを書こうと思いました。

音声データをいただきそれを聞くことができて、大変恵まれた状況での筆記ではありましたが、まとめきれない部分、聞きとれない部分、理解の及ばない部分があり、書ききれなかったところ、また、再度音声で聞いても結局、自らの思い込みによって把握してしまっているところがたくさんあると思います。あくまで私一個人の感想、記憶、把握としてこれを書くものであるということを、お読み下さる皆様に一言、お伝えしたいと思います。

 

以後、おおよその議論の流れに沿って各パネリストの発言要旨を紹介してきたいと思います。

 

 

 

会は、視覚側小山森生さんの発表から始まりました。

 

 

小山森生さん

 

視覚と俳句との関わりについて

ものを見て俳句をつくる際(input)の視覚の問題と、それが実際作品として書かれた場合の表記上の問題がある。大体俳句作品は目で見たり、読んで入ってくることが多く、大抵視覚から入ってくるのではないか。声で読まれた句を聞く機会というのは、句会くらいしかないのではないか。

どういうふうに表記するかというのは、俳句が与える効果として大きな問題であると思う

具体例として自選句「椿咲く颯とをんなを追越せば」を引用し、俳句表記上の視覚的効果について述べたい。     

この句の景は、「女性が前を歩いている。追い越して、女性がいなくなった空間に椿が咲いている情景。それをオーバーに表現した。女性の後ろ姿に目を惹かれている男性心理」といったようなものである。通常は、「颯と」は平仮名、「をんな」は漢字表記するところだろうが、「女」と漢字表記すると、記号として女というイメージがぱっと入って来てしまう(入って来すぎる)と感じた。それを避け、女性が生身の肉体であることを強調したいがために、自分の感覚から平仮名表記の方が良いと思われた。「颯と」というのはこの句のフィクション的部分、ややオーバーに、芝居っ気をもたせて表現した部分であるので、漢字表記を選んだ。「椿咲く」という表現もまた、椿はもともと咲いていたのであるが、句のイメージを構成するために敢えて「咲く」と表現した。

 

 

関悦史さん

 

今回、視覚対聴覚というテーマで議論するにあたり考えたことには、現代では様々な視覚聴覚情報が氾濫しており、you tube などで簡単に様々な映像・音声作品を得ることができる。

俳句は単に視覚聴覚的な現実を映しただけではなくて(視覚聴覚を正確に映し取っただけではなくて)、言語作品の構造体である。その語が表す事物・事象の関係性の方が(俳句創作、鑑賞のうえで)重要といえないだろうか。

例えば、「水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 阿波野青畝」の句、同じ景を見て俳句をつくったとしても、「水ゆらし鳳凰堂は蛇泳ぐ」にしたら平凡な作品になってしまう。この例から示すように、目で見たものを言語化する時、どこに力点を置きどう構成するかに俳句の面白みがかかっているのではないか。

視覚情報、聴覚情報が溢れている時代に単なる情報、イメージの再現でいいのか、という疑問がもたれるところである。

 

 

九堂夜想さん

 

最初は絵画性・音楽性がテーマだったようだが、途中で視覚・聴覚と抽象化された。少々テーマが大きすぎるのではないかと思う。

まず、レジュメから様々な表記の工夫を凝らした俳句をいくつか紹介したい。

俳句表現にも、多種多様な表記上の工夫を凝らした句が存在する。

(筆者注:実際には20句超の作品が紹介されたが、一部を抽出して示します)

○すべて平仮名表記の自由律「うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火」

○一字空白「草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男」

○大胆なオノマトペ「きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 金子兜太」

○一部平仮名「たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる 阿部完市」

○高柳重信による多行形式2句(添付画像参照)

 重信多行.jpg

 

 N 貫く一列に人の名前が隠されている仕掛

 O シンメトリー構造

○九堂氏編集人のLOTUS誌から古田嘉彦さんの作品(添付画像参照)

(※光の入り方から、画像が不鮮明な部分があります。)

 古田1.jpg古田3.jpg古田2.jpg

 

フォントサイズや字体を変えた作品

阿弥陀くじのような図形

バツ印、丸印での囲みなど記号を駆使した作品

デザイン的な図と共に配したり、言葉をバラまいたような構図

 

このように視覚上、様々な表記の工夫を凝らした作品がある。自分自身は、こうして表記上視覚に訴えかけることに惹かれつつも、あくまで五・七・五を基にし、切りつめていった中での発露を念頭においているので、こうした視覚効果のある作品については、俳句以外のアート作品としての興味はあるものの、俳句としてみた時には少々の疑いがある、という見地である。

 

 

 

司会者田島さんから

ここまでの、視覚側の発表をまとめると、大きく分けて「ものを見る」話と「表記」の話が出されている。主に表記の話がなされたわけであるが、ものを見る話になった場合、少々哲学的な話しになってしまうかもしれない。

次は聴覚のお話を伺いたい。

 

 

 

四ッ谷龍さん

 

感覚は重要であり、我々は感覚を意識しながら俳句をつくっているのではないだろうか。

私は、体の中にある視覚聴覚の話、俳句をつくるとき我々の視覚聴覚はどう働くか、表記の問題の前に身体としてもつ感覚が大事であり、そのような話をしたい。

 

視覚と聴覚の違い

A 視覚情報を取り込む機器―カメラ、ビデオ、スキャナー

  聴覚情報を取り込む機器―マイク

B 視覚から得られる情報―形・色・位置・奥行き・運動・明暗・膚ざわり

  聴覚から得られる情報―強弱・高低・音色(方向・リズム)

比較して分かるように視覚は多様だが音(聴覚情報)は刺激として常に一種類である。位置(方向)情報も、視覚の方がより強く正確に認識する―腹話術効果といって、見ている者は発信源を視覚情報の方に引っ張られて把握する―という事実がある。

(※ここで聴覚実験。四ッ谷さんは空調のスイッチを切った)

空調を止めると、続いていた音が止む。その時、我々は「空調が止んだ」ことに気づかないだろうか。つまり、聴覚とは連続性の認識に力をもつのである。

(※次に視覚実験。机の上に林檎があると想像してみよう、と呼びかけ)

想像したこの林檎はここに在るだろうか、心・頭の中に在るだろうか。

我々は林檎という言葉からイメージを心の中に起こすのであり、俳句をつくるときもこのようではないだろうか。

例えば散歩中見た薔薇を基に俳句をつくるとき、その場でというよりも家に帰ってつくることが多いのではないか。つまり、心の中にある薔薇のイメージを基につくっているのではないか。

視覚的な情報というものは必ずイメージとして集約される。

一方、聴覚というのは時間の中で認識されるものであり、音楽は時間的芸術といわれる。

また、聴覚の役割として、映像に音楽をつけると非常に感情が高まるが、音楽にミュージックビデオをつけても大して影響がなく、映画を音楽なしで見てみると非常に退屈になる。このように音楽には時間の流れの中で人の感情を高める働きがあるといえる。

俳句は感情の流れを映しだす形式ではなく、それはむしろ短歌の役割といえるだろうが、時間と共にながれる心をどのように俳句に表すかという点において、聴覚情報は重要なのではないだろうか。

 

 

関悦史さん

 

視覚・聴覚は一次情報としては重要であると思う。自分は今回聴覚側だが、自句には聴覚を扱った作品が少ないと思われるので、他の俳句作家の作品を交えながらご紹介したい。

音そのものよりもそれを言語化する手続きが重要である。

 

○厚餡割ればシクと音して雲の峰 中村草田男

シクという意外な音がたった異常さでもってリアリティをだした作品

○鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男

こきこきこきと三回重ねることによってオノマトペが物質感をもった作品

 

俳句における聴覚を考える時、モチーフとして実際に外界で立った音の問題、表記された音声の問題と交差しているように思う。それらを分けて話してもいいが、交差し、またがったところで話していかないと深い話しにならないように思う。その点で、草田男の「厚餡シク」の句や秋元不死男の「こきこきこき」の句は実際の音がモチーフになっているが、それらが言語化される際工夫が凝らされている点で、良い手掛かりとなろう。

 

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太

(内容はスローガン的で少々疑問がもたれるが、)

字余りが、定型の中に詰め込まれることによって弾力をもって跳ね返ってくる。

肉体性をもった言葉の韻律によって、句が生命力をもった。

 

思うに、「箱階段下りる足音新豆腐 桂信子」の句のように、聴覚を使って成功している句とは、音をもって現実感をもたせている句ではないだろうか。 モチーフとしての物音が立つことによって、リアリティの侵入が起こり、今まで忘れていた世界の実在(箱階段の存在など)が意識される。

また、聴覚を扱った句で実は「しずか」ということが一番訴求力が大きく、スケールの大きい世界を描くことができると思う。

「大地いましづかに揺れよ油蝉 富澤赤黄男」では、「静かだ」ということによって、静かでない世界、蝉の大音声を想像させる。

 

(前半の終、後半へつづきます)


「新撰21」考 人物 vs 作品 [俳句論]

「新撰21」は、2009年元旦時40歳以下の、新進俳句作家21名によるアンソロジー集である。

俳句好きはこの1冊でかなり幅広く楽しむことができる。

各作家の自選100句に簡単な自己紹介とタイトル、顔写真が付され、読み手はそれぞれの俳句作品をとおして作家そのもの、作家その人の個性をあるいは比較において、好きなように楽しむことができるからだ。

 どの作家さんもまだ大仰な肩書がついておらず、「こう読まなければいけない」という権威的なもの、読み手の姿勢を固定するものとは無縁で、それでいて未来を感じさせてとても楽しい。

私は気まぐれな読書スタイル故、まだ全てに目をとおしていないのだが、気が向いたとき気になるあたりをぱらぱらとめくるという緩い読み方で、十分楽しんでいる。

読んでいくなかでタイトルのようなことをふと思ったので書きおいてみる。

新撰でなくとも俳句作品全般、いや俳句だけでなく小説や音楽、絵画などあらゆる表現全般に言えることだが、受け手である私たちは作品から作者の人物像を楽しむという行為をかなりの確率でしてしまっていないだろうか。

というか、私はそうである。

別に新撰でなくとも誰かの作品集を読むときいつもそうであった思うが、新撰においてより強く自覚した。

下劣で世間的、卑俗だなあと思うが、空想遊びの一種でこの新撰を読みながらつい、それぞれの作家さんの人物・人格を想像してしまったし、そのようにただ自分勝手に想像した人物像をいつの間にか信じ込みすらし、本末転倒なことに妄想した人格を基にして作品を批評・鑑賞するという行為すら始めてしまったのである。豈に過たずや

このことをはっきりと自覚したのは各作家さんを見比べながら読むことができるという新撰の特徴ゆえかと思う。

この作家さんのタイトルはインパクトがあって、作品群からはこのような印象を受けるが、お写真を拝見するに…だな、これこれのような人物ではないだろうか、するとこの句はきっとこのような状況、心情で詠んだのに違いない。この人はきっと…な毎日を生きているのだ。

と、私の妄想遊びの勝手なこと。

ある時そんな自分をはっきりと感じて、はて、作品を楽しむというのと人物を楽しむというのは切り離したものかと立ち止り考えた。

また、自分が作品と人物をごっちゃにして妄想遊びしていると気づいた時、さらにこのような思いつきが生まれてしまった。

これら作者の作品と顔写真とをシャッフルして入れ替えたら、人物像へはもちろんのこと、作品への観賞や評価までも変わるものだろうか、ということ。

 書くという行為は諸刃の剣で、自分が表出していく(作用)一方、読まれた人に判断される(被作用)。

これを書く私自身も無論、判断される。こういう読み方をするやつがワルイと言われればそれまでだ。

しかしやはり気になるのである。

人によっては、作品から人物を勝手に想像され、そればかりでなく、さも真実であるかのように句評として書かれるのは嫌なものではないだろうか? 

私自身は自句から人物推定・評価された時にはほとんど気に留めずそのまんま流してしまった。それも句の楽しみ方の一つかと思うし、そのように口に上ること自体大したことないやと思ったからだ。句をとおしてのこうしたやりとりは仮定的なものだと、心のどこかで思っているのである。俳句は言葉である。本当のことは自分しか知らない。

が、逆に自分が人の句から人物を決めつけて書いてしまった時は非常に気恥ずかしく感じた。

これは論ではなく問いかけ。便宜上カテゴリーを「俳句論」としているが説明文ですらない、問いかけだ。

皆さんなら、どう思いますか。

 句から「この人はこういう人だからこういう心情で書いたのだろう」と書かれ、しかもそれが的外れであると感じた時。

これは句とは違う話だが、社会生活において、自分の外形的行為が人に咀嚼され受け止められていく中で、あまりにも一方的かつ的外れに心情や動機を決めつけられ、それがさも真実であるかのように話されて迷惑したこと、ないだろうか。

 私は、ある。

 というわけで、気になる。

うーむ。


俳句の鑑賞に正解はあるか?―問題提起 [俳句論]

 先日小山先生のブログで、東京書籍の教科書の、俳句に関する記述の引用を読ませていただいた。
 それは、小学生に句の鑑賞の例として、芭蕉の「閑さや岩にしみいる蝉の声」を取り上げ、説明しているものだった。下記に引用を示す。
 
  閑さや岩にしみいる蟬の声
 この句については、解説がついている。
 大きな自然の中で、小さなせみががんばって鳴いている。鳴けば鳴くほど、辺りにとけこんで、しずかきさをいっそう引き立ててしまう。ふだんはうるさいはずのせみの鳴き声を、逆に使った表現のくふうである。「蟬」は夏の季語 (※ 小山正見先生ブログ「十分間俳句」より東京書籍教科書の記述を引用)


 「解説というのは、難しいものだと思う。」と、先生は締めくくっておられた。
 小山正見先生はかつて江東区八名川小学校で教鞭をとられ、多くの児童に俳句の楽しさ・面白さを教えてこられた方だ。現在も教育委員会で子供の俳句教室を先陣を切って進められている。

         小山正見先生のブログ「十分間俳句」
                      http://blog.goo.ne.jp/haiku_2007


 私は教師ではないが、自分も児童と俳句をし、教えてみたいと思い、小山先生と現代俳句協会ジュニア研修部の主催する指導者交流会に参加させていただいている。大変お世話になっている方だ。

 その先生のブログに、上記の記述を見つけたとき、私はしばし「うーん」と考え込んだ。自分も常々疑問に思っていたことがあったからだ。
 私は教員免許は持っていないが、塾・予備校での指導経験がいくらかある。もちろん、学校での授業とは違う性質のものであるし、本当の教員を務められる方とはキャリアも箔も全然違う。
 教育に関して口を出すなどおこがましいが、しかし同じく児童に教える者として、感じたことが種々あった。
 
 回想になるが、私は国語を授業形式で教えていたことがある。2,3年前のことだ。その頃、日中は臨時職員をしていた。夜間は講師、昼は事務職という掛け持ちで、体力的にも相当きつかったが、対受験用として教える中で、多々得るものがあった。
 


 国語の授業は、個別指導とは違って一人ひとり見るわけでない。受験対策として講じているため、解法のために必要な着眼点は何か、また定式化できるところがあったらする、作文力をつけさせるために、なるべく「書かせる」。(作文の添削も楽しかった。)そういうことに重点を置いてやってきた。
 高校受験は「国語力ベース」と言われており、国語のできる生徒は各試験ごとの得点がほぼ安定しているが、苦手な生徒は試験によって点数に振れ幅が大きく、安定しないということであった。
実際、そのとおりだった。本番においても、国語を安定して得点する生徒はほぼ予想通り関門をとおった。苦手な生徒は本番になっていきなりのどんでん返しがあったりしたようだ。
私の見てきたところでは、国語力の安定している生徒は、論説・小説等はいつもほぼ一定の水準で得点できていた。しかし、そういう生徒でも正解率の定まらない単元があった。
 それが「俳句」である。
 正確に言うと短歌・詩にもその傾向があるが、特に俳句に顕著であったように思う。
 ここでは俳句の話に絞ってさせていただくことにする。

 俳句は、はっきり言って受験問題に大きなウェイトを占めている単元ではない。もし万が一出てきたときのために、試験対策として数問解かせておく類のものだ。しかし、これが本当に、教えにくいのである。季語や切れ字、何句切れか、について教えるのは簡単であるが、問題は「鑑賞」についてだ。

 たとえば、模試や受験対策テキストで、俳句に関してこういった問題が出てくる。

    (問)  A、Bの俳句から読みとれる作者の気持ちを次から選びなさい。

           A いくたびも雪の深さを尋ねけり   正岡子規
                 ア 自然の雄大さと美しさに、しみじみと感じ入る思い。
                 イ 迫った死を素直に受け入れようとするおだやかな気持ち。
                 ウ 病気で寝ているためのもどかしさと子供のような無邪気さ。
                 エ 大雪で家が埋まってしまうのではないかという心配と不安。

           B こんなよい月を一人で見て寝る  尾崎放哉
                 ア すばらしい月を独占している優越感。
                 イ 自然の幽玄な趣にこみあげてくる生への感謝の念。
                 ウ かたわらに語るべき人もいない寂しさとしみじみとした思い。
                 エ たった一人で月を見ている何ともいえない不気味な思い。

 Aの景はもちろん、(病床にある)子規が何度も雪の深さについて尋ねるというものであるが、問題はその動機について問うている。この句は、学校の授業の中で幾度も教えられてきている。彼が病床にあったこと、それ故この句の心情はウですよ、ということ。しかし、そういった前知識をおいて句だけを単品で見た場合、その動機はもっと、いかようにも解釈されうるのではないか?
 Bの句も、尾崎放哉という人物が孤独感を表す句を多く残したということが既に教えられてあり、そういう前知識があればウが答だと分かるだろう。しかし、そうでなければ。この句も読む人によって感じ取る情緒が分かれると思う。


    (問)     雨がちに端午ちかづく父子かな    石田波郷

   「雨がちに」から「父子」のどのような気持が読み取ることができますか。
   適切なものを次から一つ選びなさい。

          ア せっかくの端午の節句が雨でだいなしになったことを嘆いている。
          イ さわやかな風の吹く五月が訪れてくれることを心待ちにしている。
          ウ うっとうしく降り続く雨に、ふさぎこんだ気分になっている。
          エ 降る雨ごとに近づく端午の節句を待ち切れないでいる。

 アが答でないことは分かるだろう。句の中で「端午」はまだきていないからだ。しかしその他の選択肢、イ~エは…生徒にとってはどう読みとるのが正解か、決め手のない問題である。もし、この句が表す心情が一つに決まっているとしても、エが答えであることは「雨がちに」から読みとれることなのだろうか?むしろ「ちかづく」から読みとれることではないのだろうか。

    (問)   荒海や佐渡によこたふ天の河   松尾芭蕉
  
   鑑賞・・・海を見れば荒海で、果てしなく波うち重なるかなたには、佐渡の島が黒々と横たわっている。
        暗いその波の上には、銀河が横にかかり、頭上を遠く佐渡に渡っている。
        (    問題    )素晴らしい句である。
  
        (  )内に入る鑑賞文として最も適切なものを、次の1~4から選びなさい。
                1 繊細で華美な中に、芭蕉が抱いた旅愁を感じさせる。
                2 雄大で豪壮な中に、芭蕉が抱いた旅愁を感じさせる。
                3 繊細で華美な中に、芭蕉の佐渡へのあこがれを感じさせる。
                4 雄大で豪壮な中に、芭蕉の佐渡へのあこがれを感じさせる。

 この景が「雄大で豪壮」であることは見てとれるかと思う。しかし問題は「旅愁」か「あこがれ」かである。解答は、佐渡が流刑地であることから2「旅愁」であると説明されているのだが、生徒は佐渡が流刑地だなどと知らないし、「天の河」がかかっていることから、むしろ「あこがれ」の方をかんじとってしまう。

     (問)次のA~Eの俳句の鑑賞文として適切なものをあとから選び、記号で答えなさい。

        <俳句>
          A 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺      正岡子規
          B 雪だるま星のおしやべりぺちやくちやと 松本たかし
          C これがまあ終の栖か雪五尺       小林一茶
          D 冬蜂の死にどころなく歩きけり     村上鬼城
          E ほうたるはほうたるなんでもないよ   種田山頭火
        <鑑賞>
          ア 大和(奈良)の宿での作で、極めて自然に読んで淡白な味を出している
          イ 一種自虐的な心情が感じられる。生活のわびしさをストレートに表現している。
          ウ ふと口をついて出てきたわが声に驚き、呟く…。5・7・5にこだわらない自由律の句。
          エ あわれな対象の姿に自分を見ている点に悲惨さが感じられる。
          オ 童話的な世界が目に浮かぶ、楽しい句である。

 Aの鑑賞がアであることはすぐ分かる。その他の鑑賞、例えばオはBの鑑賞なのであるが、人によってはEを「童話的」と思ってしまう。「自由律」ということに気づけばEはウなのだと分かるのだが、「童話的」という言葉に引っ張られて自分の感性に近い方を選んでしまう。また、イとエも混同しやすい。もちろん「生活のわびしさ」はCを指すのであるが、CとDのどちらにも自虐的・悲惨さがあるので、生徒は自分の感覚に近い方を選んでしまうのである。

 正直言って私は、解いていてかなり間違った。
 生徒も、国語得意の子でも間違いが多かった。
 というか、むしろ○番の鑑賞が正解である、と断言できる根拠はどこからでてくるのだろうか。解説書にも多くの説明は書かれていなかった。出題者はもしや、どこかの論評本から句と鑑賞の記述を拾い、そのまま抜き出して出したのではないだろうか?
 これは、私が下手に俳句の実地を体験したからこそのなの疑問なのかもしれない。句会の中で、一つの句においてさまざまな解釈が可能であり、また、人によって多様な味わいが生まれるからこその俳句の面白さ、それこそが多くの言葉をもたない「俳句」の生命であることを経験してきた。だから私は、上記の問題、いずれの解釈もありうると思っている。

 また、解答解説もやりにくい。論説文、小説なら、文中にたくさんの伏線が用意されている。これら長文は、作者がその意図を十分に伝えるため、つまりこちらのイマジネーションに委ねるのではなくて、言い分を正確に伝えるために編まれてあるのだ。「○番の解答」のみを選ばせるための根拠が沢山ある。

 しかし俳句はどうか。
 その句からどのような「景」が読み取れるかは互いに通じておかねばならないにせよ、情緒的な部分までは読み手に委ねる、それが俳句本来の姿ではないだろうか。
 童話的、自虐的、あこがれ、あわれ…そういった感覚を覚える対象は人によって様々である。また、様々であることが許されてあるべきだはないだろうか。
 
 これらの問題群は、全体の一部である。もっと沢山の出題例があり、紹介ししていないものの中にも疑問を感じるものが数多ある。
 このような試験問題を見るにつけ、「正解」を選ばせることのナンセンスさ、また、正解を理論付けて説明する、納得させることの難しさを真に感じてきた。
 何より、「この鑑賞が正解です」と押しつけることが人の感性に対する圧迫のような気がして、いつも引け目を感じていた。
 私のように経験の乏しい、実力の覚束ない者が考えることであるから、至らない点、熟考の足りない点が多くあろうかと思う。
 また、俳句に関しても自分なりの解釈・解釈の幅の許容範囲が広すぎて、非常識な点があるかもしれない。
 しかし、このような見方もあると、全体の中の一つとして何かの参考になれば幸いであると思い、あらわしてみた。

 これから、学校での俳句の実作が始まろうとしている。子供たちは俳句の面白さを句会という生の、血の通った文芸として楽しんでいくことだろう。
 一つの言葉が、人によって様々な味わい方をされ、万華鏡のように多彩な生命をもつことを実感していくだろう。

 しかし、その先に待っているものが「正しい答えを選びなさい」では。

 なんだか…釈然としないのである。


俳句観について [俳句論]

ツイッター俳句を始めて2か月になる。

このおかげで、自分の俳句や俳句観について気付かされたことがたくさんあった。

ツイハイを始める前の私はほぼ毎日一人で俳句創作をしていた。
ある程度作品がたまれば先生に見てもらったり、定期的に数句を同人誌に出したりはあったものの、
人からの感想を聞く機会はそれぎりで、多くは閉鎖的であり、不安に満ちた作業であった。


それなのに何故俳句を作り続けていたか。
その主たる動機はなにか「賞」をとりたかったからである。
いうなれば俳句そのものよりも、「賞」を恋していた。

ツイハイを始めてから初めて、句を人に見てもらうこと、感想を言ってもらうこと、読まれたかどうかはともかく、
「俳句を発する」ことの開放感が得られた。

それでも完璧な一句、上等の評価を得られる精巧な一句を求める心は止まずにいたが、
その心を煎じつめていくと、「自分の句に所有権をつけること叶わず」という結論に達した。

賞に拘泥するということは要するに功名に執着するということだ。
俳句で功名を得たい。その先はどうなるか。
実は、その先には何もないのではないか。

なぜなら俳句は毎日の文芸だからである。
佳い作品を出したからこれでOK、もうやることはない、ではない。
毎日生み出さなければ俳句を詠む人間としては、静かな死である。

一度ぎりの功名を遂げるより、毎日生み出すことに意味がある。

また、俳句は17字であり類相多発する文芸だ。
例えば自分がなんらか秀句を生み出したとする。
世間に認められた。評価された。
そこに私の句と非常に近似した句が他者から発表された。
もはや私の手柄なのか他者のものなのか分からない。
声高に「これは私が最初に発見した句です。私のものです」
と叫んだらどうだろう?
もちろん、見苦しいだろう。
いやさ、それ以上にその行為には意味がないのである。
結局「句」に所有権を主張するということは、せいぜい「自分が第一発見者である」と主張する程度の意味しか持たないからである。

歴史をよく紐解き、丹念に探せば、自分より以前に同じ発見をした者がいるかもしれない。
また、リアルタイム、同じ時に同じ時代を生きるものがたまたま似た句を生み出すことあるかもしれない。

しかし「句」そのものの価値は動かない。
読む人にとって、作者が誰かではなく、その句のもっている「発見」そのものが大事だからだ。

例えば自分が死んだとする。
死ねば、世の中の一つの要素が完全に欠落するか?私が世の中で担当していた一つの役割が完全に欠けるだろうか。
そうではなく、私のしていた役目の代替をなすものが必ず現れる。
それは世界の柔軟性とか集団内のorganizeといったものである。
自分がいてもいなくても、十分に世の中は成り立つ。
だから命を軽視してもいいという意味ではなく、表現もそういったものだと感じたのである。

また、上手い下手を意識しすぎると、詠みを発表するに、次第に隘路にはまり込んだような状態に陥ることが多くなる。
発表する前に考えすぎてしまうのだ。
「上手い」自分でなければと、無意識にロックがかかってしまうのかもしれない。
上手く上手くと思えば思うほど、たった17字のこの文芸は限界を呈してしまう。

以上のように述べたが、私が上手いというわけでもなければ表現を練る工夫・努力が必要ないと言っているわけでもない。

ただ、なんというか。俳句は流れていくものなんだなと、一緒にリアルタイムを楽しむということが素敵なんじゃないかなと。そういうことを、言ってみたかったんですな。
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