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岡村知昭句集「然るべく」 [俳句鑑賞]

こんにちは。佐々木貴子です。

ブログアップは久しぶり…もしかして「死んだ」と思ってましたか。

ほっほっほ、生きてます。

 

今日は岡村知昭さんの第一句集「然るべく」についてご紹介します。

まず、個人的にその詩情好きだな、という句群がこちら。



 

  あわゆきぞ人魚のおはなしの途中


朝顔の藍に飼われる鬼子かな


八月の雨より国のおびただし


しゃべれなくなり冬空を熱気球


青銅の犀と暮らせば春日向


卒業式中止の水玉の空よ



 


また、上掲のような私の好み如何に関わらず、岡村さんの句集には独特の個性のあるように感じました。

その個性とはまず一つは、「俗性」をさらっと取り入れてくるところです。

言葉の選び方をみていると自然と感じられます。

単に客観的事実・社会的事象という俗性だけでなく、「個人の・人間的な・主観の」要素もさらっと入れて、ひょうひょうとした語り口の中にユーモアを描くような。

言葉のすりかわりの意外性の中に人間生活と、内的世界を彷彿とさせるような。



 

 おにぎりやかつての村の梅匂う

  ぜんぶ賛成ひなあられこぼしつつ

  年上のすべり台なり夕桜

  砂浜に聖子少々麦の秋

  校倉のかたつむりなら私なら

  八月が入りきらない母屋かな

  鎮魂がパンティストッキング干す

  液状化恐れぬベビーカーたちよ

  雨音や斜塔を妻といたしたく

  男尊女卑をふりかけにまで言われたり

  ふたことめには倫敦の寒の鯉

  ついに泣き三連休の交差点

  つちふれり大声さらに涙声

  朝風呂や四月一日付解雇

  晩鐘よ即戦力のはなびらよ



 

岡村さんの句は、とても軽妙なリズムがあります。

集中、ほとんどの句は歯切れの良い定型を刻んでおり、漢字熟語の取り入れ方も音感・リズムの点で巧みと感じるものです。(ご本人は無意識に選んでいらっしゃるかもしれませんが)

軽妙だからこそ、逆に内的世界が生きてくるということも、あるものなのですよね。


次回作を楽しみにしております。

ご恵投、誠にありがとうございました。



 


肺胞も八手も咲くがよろしかろ  岡田一実 [俳句鑑賞]

 

 

肺胞も八手も咲くがよろしかろ  岡田一実



 



 



この句好き。



この句は批判されたりもしたと聞いたので、



じゃあなんで自分は好きなんだろ?…と思って、



考えながらほつほつ書いてみることにしました。



 



この句の面白いとこ。



一つには、肺胞も八つ手も、なんかエグい。見た目がエグい。



八つ手って、可愛いだけの植物じゃない。葉っぱがおっきくて掴まれそう。形も手みたいだ。「人」を感じさせる植物だ…。



肺胞は?もちろん、直に見たことなんてないけど、生物を習ったことがある人なら、知ってる。脈に覆われた小胞の集まりだよね…こわい。



よく見れば、八つ手の花つき方はまさに肺胞そのものじゃない?そっくり。



 



それと、も一つ。



例えばアレルギーの人は花が「咲いた」ら苦しい。



植物も、他の生き物もめいめい、それぞれの本領を発揮すると対抗線にあるものが苦しくなる。みんなただ、生きてるだけなのにね。



体の中にだって、私の都合を無視して「咲く」ものがある。



体の中で癌細胞が「咲いた」ら?



肺胞が「咲いた」ら?あの小さな袋の一つ一つが「咲いた」ら、苦しそう…。



私の体なのに、私を病ませるものが存している。なんでだろう?



私の体なのに、私と対立する細胞がある。まるで独立した一個の生命体として、体の中に間借りしているみたい。



体の中で「咲く」もの。それが私を苦しめるけど、どうもできない。



だって、咲きたいものは、みな「咲く」んでしょう。



生き物はみな、そうやって。



だから、咲いたが、よろしかろ。



 



そんな、さりげない諦めを感じて、この句が好きなのでした。



 


吉村毬子句集「手毬唄」 [俳句鑑賞]

 

布張、箱入で和服のような雰囲気のある美しい装丁である。

栞文は安井浩司、志賀康、豊口陽子、福田葉子(敬称略)による。

現在LOTUS同人の吉村毬子さんによる第一句集より数句。

 

しづかな窪へ対岸の朝溢れ

海抱きの硬さとも白い夢とも

母を呼ぶ階段の下朱い雨

寒椿老婆唄へば山へ散る

蒼穹の笛の並ぶや死人華

階段に海の残光かなかなかな

水際の空葬(からとむらい)や昼の虫

唖蟬は夜の海へと膨らみぬ

新樹光鎖骨より溢れる泡か

晦の海を眇める山が綺麗だ

訥訥と漢は樹々へ縄の雨

少年や穀物袋の宇宙音

 

殊に

寒椿老婆唄へば山へ散る

蒼穹の笛の並ぶや死人華

少年や穀物袋の宇宙音

の3句は好きな句だ。

寒椿の句、きっと通常の読みとしては、散るのは「寒椿」であるととるのが普通なのだろう。けれど私には「老婆」自身が、唄うことによって、それを契機として寒椿のように散っていく景が浮かび、夢幻性を感じた。

蒼穹の句、明るく晴れわたった空のもと、あまた笛が並んでいる。「笛」には「ハーメルンの笛吹」など異形の存在への契機を示唆する面もある。死人花の姿が笛の形状とごこかで結ぶようでもあり、また、死人花の強い存在感が、「笛」の不穏な面をひきだし、鮮烈で印象的な絵を見せてくれる句だ。明るい青空に死人花の景色は誰しも見たことがあるものと思うが、言葉にならない不穏さがよくひきだされた作品と思う。

穀物袋の句、穀物袋を触ったりした時たつ、しゃんという音。少年が袋をおいた時その音がたつ。それが、宇宙音だというのである。宇宙を内包しているのは少年であろうし、穀物袋の中にもぎっしりと混沌の宇宙がつまっているのかもしれない。

私がご紹介した句は本作品集の中で比較的実景的で、シンプルな姿の句である。吉村氏の、しずかな光のなかに情緒の表われた作品にとても心惹かれた。吉村氏の作品にはこのような句風とは違って難解さの中に迫力のある句も、古代を感じさせる句も、また煌びやかな言葉の遊戯を感じさせる句もある。

 また、作者名、句集名両方とも「毬」の文字が使われてあり、作品集中「毬」をモチーフにした作品が多く見られる。作者が毬という文字にどのような思い入れがあるか、詳細を知ることはできないのだが、自分なりに想うことには「毬」というものは子供時代の遊びや懐かしさを示すとともに、どこか一人遊びの寂しさを想わせるものでもある。童心の寂しさである。

作者の毬を使った一句に

  毬つけば男しづかに倒れけり  吉村毬子

 

がある。これは不思議な句だ。

毬をついているのは確かに少女の意識であるのに、倒れる男はどうみても成熟した男である。少女が一人遊びに毬をついているとき、穏やかに手毬唄を口ずさみながら心中では様々な想が去来しているだろう。完全に一人の想の中に埋没している時、不意に大人に話しかけられて怪訝さや、敵意のような視線を向けてしまった一瞬を思い出すのである。あるいは成熟した女であって、同じく成熟した男と相対しているのかもしれない。成熟した女性の中からのぞいている童女の鋭い敵意、不意についた毬の一撃で、男はしずかに、倒れていくのである。

 

しっとりと古風で、手に重みの残る句集。

 

御恵贈有難うございました。


五十嵐秀彦句集「無量」、吉本宣子句集「木の春」 [俳句鑑賞]



 

 

五十嵐秀彦句集「無量」、吉本宣子句集「木の春」

 

 

 

 

 

五十嵐秀彦句集「無量」

 

平成25年8月刊行の著者の第一句集。

序文黒田杏子、跋文深谷雄大。(いずれも敬称略です)

 

北国の細か雪が厚く降り積もったかのように、しっとりと重たい感触のある句集。

著者である五十嵐さんは北海道の方、やはり雪の句が多い。私も雪国在住であるため、雪をどのように詠まれているか関心があった。

乾いて客観的な口調に静かな情緒、また社会や人生への目線が感じられる作品集。

(以下、句集「無量」より十句)

 

 

 

傷口の奥に雪野の陽の眩む

降る雪に重たき耳をふたつ持つ

月光の告訴満ちゐる口の中

ひとむらの荒地野菊の漂へる

眉を剃る女に雪の汽笛過ぐ

幻影となり父の声雪の声

靴底の雪剥がし黙剥がしけり

極月の鉄路知名の谷をゆく

かなしみにふれんと雪の穴を掘る

赤とんぼ無数失踪者無数

 

 

とくに下の二句に瞠目した。

 

月光の告訴満ちゐる口の中

靴底の雪剥がし黙剥がしけり

 

一句目、月光の明るいなかを一人歩いている。仕事帰りだろうか。仕事で何か諍いごとがあったのだろうか。人物はそのことを沈黙のうちに思い返しながら歩いている。口は堅く結び誰にも心情は話さないが、心中では先ほどの諍いごとがいよよ、煌煌たる月光とともに、かみ殺す口の内にふくれあがってくるのである。

二句目、仕事から帰り、家の玄関にて雪をはらう動作が想い起される。雪国の靴は底がスパイクで、複雑に入り組む迷路のような型に出来ている。厳冬下、雪はシルクのようにきめ細かく、踏みしめられると堅くしまる。玄関で剥がしたスパイクの底の雪は、複雑な型を残したまま、ぱらぱらと剥がれ落ちるのである。その雪の型があたかも、黙して語らなかったけれど心の中では鳴り響いていた、言葉の片々のようだ。

 

 

 

 

 

吉本宣子句集「木の春」

 

平成26年2月刊行の著者の第一句集。

序文中村和弘。(敬称略です)

こちらも、「無量」とは異る重たさのある句集。

どっしりと決まった有季定型に静かに抑えた情緒、そのなか一閃狂気の奔流が垣間見えるような作品集。

特に「火」を使った作品に着目した。序文に触れられてあるとおり、原初性を感じるすばらしい「火」の力と思う。

(以下、句集「木の春」より十句)

 

 

 

夏至の来てまつすぐな木の騒ぎ出し

舌噛めとささやきにくる月夜茸

八方に野火とびまはり父母の国

霧青し父はすばやく徘徊す

木の春を人の容(かたち)に耐へてをり

巫女舞の曲線ふやし空の澄む

十一面の闇雁の渡りけり

閻王や街はうすももいろの雨

雨乞ひのぴしぴし折れる炎かな

竈の火銀河は銀河色を噴き

 

 

とくに下の二句に瞠目した。

 

八方に野火とびまはり父母の国

竈の火銀河は銀河色を噴き

 

一句目、野火が飛びまわるとはなんと躍動的な光景だろうか。まるで火が自ずから意志をもっているように、あちこちへ生殖する様子が浮かぶ。父母の国は己がルーツである国、ととれようか。あるいは、心のどこかで安寧と憧憬を覚えている国、その原野ともとれるかもしれない。

二句目、竈の火は、銀河と組み合わされることによって非常に火勢が強くなったようだ。ごおと勢いよく竈の火が噴く。その様に生命のエネルギーを感じている。火が生まれるエネルギーは銀河が生まれるエネルギーと同一であるかもしれない。銀河は銀河色、竈の中のこの火にも銀河色がのりうつって、蒼くミルキーウェイ色の炎であるかのようだ。見たことのない炎の色。

 

 

 

 

 

今回は句集「無量」、また「木の春」について御紹介させて頂いた。

いずれも、静かな重みのある句集と感じました。

ご恵投真に有難うございました。

 

 

 

 


森須蘭句集「蒼空船」/古田嘉彦句集「純粋雨期」 [俳句鑑賞]

 

 

森須蘭句集「蒼空船」/古田嘉彦句集「純粋雨期」

 

 

 

 

今回二氏の句集を併せてご紹介しようと思ったのは、それが同時期に届いたからということもあるが、読んでいてどことなく似通う部分を感じたからである。

もちろん二つの句集には互いに全く異なる領域、異なる感性の部分が沢山ある。しかし今回は敢えて同じ質感を感じるところを抜き出し、並べてみたいと思った。

それは、特に古田作品を読んですぐに感じとれることであろうが、決して易解ではないという部分と、それでいてすんなり口から流れ出てきたような感じのするところだ。

森須氏の句集の方は、生活実感に即して感覚よく面白く、万人に理解され得る句がたくさんある。しかし、そういった句の中にたまに、おやと思うような奇妙な感覚の句が存在しているのである。

以下、二つの句集についてそれぞれ御紹介する。

 

 

 

古田嘉彦句集「純粋雨期」

 

真っ白くさらっとした紙に、銀で大きく「純粋雨期」と書かれてある装丁が美しい。

序文や跋文のないシンプルな構成。最後に筆者の後書がある。

俳句作品は、最初の方の頁は信仰告白または信仰にまつわる日々の思いといった2~5行の文が句に添えられてあるが、途中から俳句のみになる。

時折図示を用いたりなど、通常の一本書作品とは違う俳句作品群で、世間では難解といわれる部類に入るのだろうが、与えられた文字を目にしてゆくうちに不思議と、それこそ雨後の透明な空気のようなものを感じる。後書のあと空白の紙が7頁くらい連ねられているのも余韻を感じさせる。

以下、目を惹いた作品を下に御紹介する。尚、添えられた文や図示作品に関しては今回は御紹介せず、次回以降の機会にと思う。

 

 

曼珠沙華両手でさわり不可避な婚姻

溶けていく魚の一部となった菫と

ほどきにくい薇の文字ほどいて水銀燈

有翼の鐘撞き用通路=口腔  全開

トルコ石より早い蒼穹  遅い菫

最後は冥王星  線画も青痣も断わる

精液ゼリー  糸で吊ったガラス工房と

影ごとに猫置く六月  空気遠近法

葉脈の純粋住居がそよぐ浴身

秋の水に列車浮かべて睡眠の定義

全体は密林だが今度の青は女だ

 

 

 

 

 

森須蘭句集「蒼空船(そらふね)

 

表紙は白地に蒼を基調として、飛ぶ帆船の絵が描かれてある。帆船が大きな本の中に入っていこうとする印象的な絵である。序文を前田弘氏、跋文を川名つぎお氏が書かれている。

各章の最初の頁に作者森須蘭氏と、その娘さんでいらっしゃる二人の俳人高遠朱音氏、宮坂翠氏らによるイラストが挿入されてある。また、句集に使用されてある紙から仄かに香が立ちのぼってくるという凝った造りだ。

俳句作品は、母であり妻である女性の生活を想わせるような、それでいて感覚鋭く面白い作品が沢山あるのだが、その中から特にこの感覚は瞠目だな、易解ではないなと思うものを選び挙げてみた。

 

 

雪原の匂い溜め込む片乳房

鳥類図鑑開く肺の奥まで時雨

一斉に音を外してゆく桜

空蟬は土星の記憶

冬天の鍵穴濡れてゆく螺旋

月球儀なぞる中指の囀り

うなじより男出てゆく薄暑かな

いぬふぐり空に窪みの残るかな

雪催い鼻は静かな活断層

 

その他、下記の句に心惹かれた。

 

氷海を安全ピンが留めている

春愁へ直滑降の娘たち

ら・ふらんす ひとり吊り橋の真ん中

春の山長男どっさり育ちます

かたつむり一生水平線にいる

全員が卵抱えている憂い

金木犀の音満ちてゆく夜明け

人の世の虹に小さな傷があり

中空に水の形の銀やんま

 

 

 

 

俳句の中に難解といわれる一角が確実にあると思われる。

「難解セクション」は、鑑賞し合うという楽しみ方の土俵から外れたり、読まれてもそのままおかれてしまう、といったことが現在多いのではないか。

「わからない」の一言でその後の進展が絶えてしまいがちな「難解セクション」であるがしかし、実際には読み手はその句を見て「何も感じない」「全く絵が浮かばない」のではなくて、その句に関して鑑賞を披露したり説明することが難しいのではないだろうか。

今回ご紹介した二氏のうち古田氏の作品は信仰が軸になっており、そのなかで御本人の脳内にフラッシュした映像のようなものが連ねられている印象だ。

一方で、森須氏の作品は生活から汲みあげた感覚の句のなかに時折不思議なものが紛れこんでいる。言葉が平易であるだけにその謎は手ごわい印象である。

私も、うまい鑑賞などは出来ないけれど、それが出来るまでずっと自分だけで溜め込んでいるのはもったいない。刺激をうけた作品をここにみて頂き、沢山の方に実際に感じて頂きたいと思うのだ。

 

 

 

 

森須蘭様、古田嘉彦様ご恵投有難うございました。

 

 


合同句集「水の星」 [俳句鑑賞]

 

 

合同句集「水の星」は、実験的俳句集団「鬼」の20~40代から有志8人の俳句及び詩を集め一冊としたものである。

タイトルは鬼貫の一句「闇の夜も又おもしろや水の星」からとられたという。

8名の作家の句作品はほぼ、それぞれ100句前後(うち1名は詩作品を掲載)。また、それぞれの作家ごとに作品評やエッセイが付されてある。

以下、感銘を受けた作品を抜き出してご紹介したい。

 

 

 

 

 

髙勢 祥子「触れる

作品評

「身体」への関心  今井 聖

 

ねと言つてやはらかなこと雲に鳥

錆びてゆくものの味して花の雨

青蛙こどもは水滴のやうに

エスプレッソマシン鎮座す麦の秋

花火見にゆく群集のくろい髪

あたたかい手かも秋海棠を指す

唇に入る髪苦し冬の園

直線の多きコートを脱ぎ捨てる

 

 

1句目、「ね」という音のやわらかさに着目し、その微妙な感覚がすんなり表されているところに瞠目した。3句目、青蛙のみずみずしい青さを背景に、子供が大きな水滴に化してゆくような、静かな透明感を感じた。7句目も好きである。

今井聖さんの作品評に書かれてあるように、この方の100句には身体の部分が表われている作品が多く、それが触覚を中心に編まれているといった印象がある。触覚が表われているもののそれが決して厭味でもいやらしくも無く、うっすらと仄かなのだが、誰にも記憶に在るような皮膚感覚が鋭敏に捉えられてある。

 

 

 

田口 茉於「美しき箱」

作品評  

季節に触れる、わたしに触れる 三宅 やよい

 

蛇穴を出づメディチ家の黒簞笥

美しき箱送りあふ梅雨晴間

水蜜桃美しく眉ひそめたる

黒人霊歌遠くなるとき鳥渡る

 

 

2句目が一番好きだ。社会生活で、日本の贈答文化を実感する機会は多い。仕事や親戚同士の付合などで綺麗な箱に入ったお菓子を送り合う様を、誰もが一度は目にしているのではないだろうか。お菓子を入れた箱は、捨てるにはもったいないほど美しく、箱こそが主役なんじゃないかという気さえする。

「美しい箱」という大胆な省略が象徴性を生んで、単なる現代的な風俗を描いたにとどまっていないところがとても良いと思う。

 

 

 

井上 明惟子「ヌーン・シティ」

エッセイ 

余暇の遊戯ではなく

 

二匹目の腸落とす母の恋

つくしても春の闇より幸福よ

スッカーンと春の憂鬱投函す

吊皮の下の人間地獄図絵

一枚に幸福たたまれた五月

 

 

軽妙な語り口と現代的な事象が生きた作品群。

集中、なんとなく靴先を見ている感じ、己が掌をふっとみつめている瞬間を想わせる句があった。

ご本人によるエッセイ「余暇の遊戯ではなく」の最後を締めくくる一文を抜粋するに―「大衆性という漠然とした、得体の知れない場所で、大衆の中にいて俳句そのものを優雅にあやつれるようになった時、俳句が余暇の遊戯になった時、果たして私は、俳句をつくり続けているだろうか。」とある。

おおいに、共感するところである。

 

 

 

原 千代「慟哭」

作品評 

原千代さんのこと いがらしみきお

 

「宗左近先生に捧ぐ」と題した7句より

慟哭

春疾風細む肋骨爪弾けり

死の床の聲あたたかし春の虹

死の匂ひ狂気の匂ひ桃腐る

骨壺に納まりません星月夜

以後、詩作品と「阿修羅像」3句、「二〇一一年・春」6句

 

 

「慟哭」。宗左近先生の臨終に立ち会われた体験を詠まれたものだろうか。

人の臨終に際する慟哭が興奮を帯びて語られているように感じた。

例えば1句目の「春疾風」の句では衰え細む肋骨を爪弾いたりなどしているし、2句目では「死の床の聲」はあたたかく、しかも「春の虹」が見えている。

このように、受け止めがたいであろう死に際して明るいモチーフを合わせているところに、それだけに強い興奮と、狂気じみたような悲嘆を読みとってしまう。

先生に対する愛惜いかばかりか。ほぼ愛執に近いような強い感情を想ってしまう作品だった。

 

 

 

磯部 朋子「方位磁石」

作品評 

少女の仮面 三浦 郁

 

方位磁石

立春やモガ繚乱の本を愛づ

臨月の手足をひたす春の水

待合室妊婦らは満ち満ちて春

乳張つてきてたんぽぽの黄の濃さよ

炎昼や給湯室で乳しぼる

ほのあかき耳朶のうら走馬灯

冬の星指さすほどに増えてゆく

 

別れ告ぐ

月こよひ巨大団地は丘の上

春ともしなまなまとせし壁の色

(ほか、「少年と鳥」)

 

 

女性らしい華やかさ、活き活きとした言葉が眩しい作品群。 

妊娠出産―「方位磁石」、住み慣れた家を離れる時―「別れ告ぐ」、子の成長―「少年と鳥」と、100句を通して一人の女性の生の流れが読みとれるところが面白く、実感がある。

殊に「方位磁石」の項の、輝かしくも迫力のある妊娠女性の描写がとても良くて、春にぴったりの爛漫さだと思った。

 

 

 

角南 範子「永久歯」

作品評  

流行と永久歯  柳生 正名

 

ショールぬらぬら揺れて進化論

ヒドラゐる青き桜の散る夕べ

友の子に指吸はれゐる遅日かな

脇の下洗ひ春愁霧散せり

空の幸福受け取めて凧揚がる

漱石の脳ある校舎蟬時雨

背の骨の曲がりしところ秋来る

わたくしの本籍住所からすうり

 

 

この方の作品には身体を描いてかつ、大胆である様を想った。

ある意味で生々しいほどの身体を対象に捉えながら、そこに溺れずパキッと切り離し詠んでいるような感じだ。

1句目や2句目の感覚は、集中もっとも瞠目した作品で、不気味さ、かつ不穏さを湛えながら美しい色彩の絵となっている。そんな作品を羨ましく思う。

5句目「空の幸福」の句も好きだ。

 

 

 

菊池 麻美「白い庭」

紀行文+海外詠 

夕焼けに似た朝焼け

 -ラオス、三都を巡る旅

 

鱧食べて作り笑いをしていたり

良心がいたむ野菊が刺さっている

秋雨や火傷のあとのきらめけり

冬の夜や爪を磨けば白き粉

冬日さす洞のある樹になき樹々に

如月や詩集を包む薄き紙

 

 

物を即物的に捉えた作品が目をひいた。

4~6句目など、描かれたそれぞれの物が、かさかさと乾いた感じがする。色調もさらしたように淡くて生気が無い。そのようなものを見つめる目線は、どこか虚ろな、うすうすとした孤独を感じさせる。

3句目、秋雨のあとの路面が燃えるように輝いている様だろうか、それを痛々しい火傷のあとのように感じているところに、強く共感する。

 

 

 

橋本 直「エイチ」

作品評  

真摯・透明  深見 けん二

 

ゆつたりとレジ打つ春の薬剤師

情念と時間に於いて蛇苺

和船ぎぃと進み入道雲多淫

風鈴や舌噛めば血の流れ出る

紙の桃切れば出てくる戦神

ふだらくのあかりへあめりかしろひとり

海月浮く自閉の中に海をもち

残暑といふ四角い枠の抽象画

廃船のペンキの厚き天の川

出アフリカ犬はどこから秋茜

左岸に生まれ冬の月と渡る

湾曲の校舎は冬の有機体

限界までリクライニングする雪野原

 

 

ここまで女性の作品が続いてきて、最後が男性の作品となった。男女の別のせいとは限らないが、見た目の印象から異なる。

惹かれるけれども鑑賞が難しい、ということについて思う。

例えば3句目の「和船ぎぃと進み」の句。和船というもの、現在ではほとんど目にすることはないし、その言葉を句中に用いること自体がタイムトリップ的な効果をもたらすのではないか。それが入道雲の下動き出す景はおぼろながら描くことが出来るけれど、その雲が「多淫」となると、これは一歩進んだ創造となるように思う。

4句目、「風鈴」と「舌を噛む」の配合も、そういった光景は私達の体験の中にはないのではなかろうか。

読み手が体験から景を起こせない時、難解と言われ、鑑賞対象から外される、そういった現象がもしかすると、あるかもしれないと思う。

確かに鑑賞というよりは、句を読んで想像ないし創造するという楽しみ方の方がふさわしいのかもしれない。無理矢理に意味に落ちつけてしまうことは、こうした句群に対してもったいないことのように思える

9句目の「廃船のペンキの厚き天の川」は、そのままの景にとれる句だが、厚塗りのペンキで何度も補修され、いまは廃船となって静かにたたずむ船は、かつては銀河を旅してきたような想像を掻き立てられる。

 

 

 

 

ここ、青森でも桜はほとんど散ってしまったが、まだ八重桜や芝桜、チューリップが咲いていて、春の名残がきらきらしている。

稲田には水が張って、満々と青空を映していた。

そのような春の名残に、とてもよく似合う句集「水の星」だった。これを書きながら、それぞれの作家さんの感性をとても楽しませていただいた。

 

御恵投有難うございました。

 

 

 

 

 


つちふるや嫌な奴との生きくらべ  藤田湘子 [俳句鑑賞]

 

 

つちふるや嫌な奴との生きくらべ  藤田湘子

 

 

 

世の中は不思議だ。害を加える側が生き伸び、根をはっていく。

いじめられた方は自信を失い、自尊感情を損なって、ずっとずっと病みっぱなしになり、社会に出ていけなくなることだって少なくない。

いじめた方はどうかというと、余程の重大事件を起こさない限り「あの人は~~・・・」等と陰口をきかれることはあっても、例えば会社なら仕事を続けそれなりに社会生活を保っていけるし、学校ならば学業を続けられて、順調に卒業し学位をおさめるだろう。

一方で、加害された方こそが全てを失っていくことが世に少なくない。

 

私の知る限り世間は、清く正しく、積極的に加害などしないでやられた方よりも、我を出して出して人を己の我に巻き込んで、病ませるほどに力をふるった方が残っていく。

考えてみれば歴史だって、迫害し、邪魔なものを駆逐した側が好き勝手なことを語り続けた結果なのだから、やっぱりこの世はどんなに「法治国家」等と建前ぶってみても、根本的には品の悪い弱肉強食世界なのである。

 

この句の「私」にも「嫌だ」と思う奴がいる。恐らくどんな人間にも「嫌だ」と思う奴がいるだろう。利害の合わないところに対立が生まれ、必ずいつもどこかで「嫌な奴」合戦が繰り広げられているのだ。

「嫌な奴」のことを考えると善良な「私」は気持ちが引っ込みそうになる。こんな奴とは関わりたくないとばかりに、自分の方こそが社会から退いて、ひきこもってしまいたくなる。

 

しかし、そんなわけにはいかない。閉じこもってしまえばこの世では負け。どんどん縮小していくのは自分自身の生なのである。

世の中にはその「嫌な奴」のために自死までしてしまう人がいる。自死は周囲の人の心に大きな影を残す。友人や恋人、親や兄弟のように親身な間柄であったなら、ずっと心に重いものを抱え生きていくことも少なくないだろう。あるいは、当の「嫌な奴」の心にも、死をもって多少の痣を残すかもしれない。

 

しかし死とは、時間とともに記憶や感情が薄れていってしまうものでもある。記憶が薄れゆくこと、それが生きる人間の側の健全な心の在り様でもあり、生きていかざるを得ない人間には必然的な心の道理ともいえる。

誰かの死によって深手を負ったとしても、多くの場合、数年もすれば記憶は生者にとっておさまりやすい色調に褪せ、描きかえられて、人は死者を忘れることはないけれど笑って日々をすごす。

そのような様を見ると、どんなに馬鹿を見ても自ら死ぬのは損だと思ったりする。

 

この句の「私」も、生死までは考えていないとしても、やはり「嫌な奴」には負けまいと思っている。「嫌な奴」大いにけっこう。「私」もあなたにとっての、あるいは「嫌な奴」となって、どこまでも生きてやろうじゃないか。

非常に重い胆力を感じる中7下5である。

 

しかし、ここで、「つちふるや」だ。

「つちふる」とは春、空から砂塵が降ること。中国大陸の黄河流域の砂や土が春風に舞い上がり、海を越えて降りしきり、ときに遠くが黄色く霞んで見えること、霾曇(よなぐもり)のことである。

この句の「私」の前に黄色くもやもやした黄砂の大気がある。嫌な奴を思い、いやさ、己もしぶとく生きてやろうと思いながらも、「私」の胸に渦巻くものは穏やかではない。黄砂のように黄色く汚れ渦巻いている。

 

あるいは、この胆力をもって眼前の霾曇を吹き飛ばしてやろうという気概があるのかもしれない。

しかし、そのいずれであっても「生きくらべ」を決意する心境とは結局のところ、「嫌な奴」に強く意識がおかれてあるのであって、そこから自由にはなっていないのだ。

強くしぶとく、善良さを犠牲にしてまでも生きてやろうとたくらむ心持はたのもしい。

しかし、一方で果たして、これでいいのだろうか。

 

 

そんな、人間(じんかん)に生きるリアルな人間の様を思わせる句だ。

 


青山茂根句集「BABYLON」 [俳句鑑賞]

 

 

羽ひらく孔雀のごとき湯ざめかな

 

湯冷めの皮膚感覚。ひやひやと体表から温度が失われ、自らは無防備に裸体をさらけだしている。羽ひらく時孔雀は最も美しいが、同時に最も無防備な姿であろう。

 

 

青山茂根句集「BABYLON」には、力強さと格調のある句が多くみられる。

 

流氷は嘶(いなな)きをもて迎ふべし

螺髪(らほつ)へと流星還りくるころか

偶像は捨てよ胡蘿蔔(にんじん)太らせよ

絨緞の上に反乱をさめけり

上陸の夜を梟に迎へらる

まなじりのくれなゐ流れたり金魚

初夢のなか崩落の響きあり

 

 

 

敗北を表現した句にも、誇り高さが漂う。

 

夕焼の底に敗者は横たはる

落城のごとく毛虫を焼きにけり

 

 

闘いのなか追いつめられているような、切迫感を感じる作品もある。

 

恵方道までも火の粉が追つてくる

西へ西へと向日葵を倒しつつ

うばひあふなり誘蛾灯倒すまで

 

一体何に追われ、また、自らは何を追うのだろうか。

追うこと追われることは表裏一体であり、その背景に使命感ともいうべき意志の存在を感じる。

 

 

 

気力意志力、背筋を伸ばした姿の青山茂根作品であるが、時にふっと弱気の瞬間が現れることもある。

 

夕焼を処方されたる家路かな

もがき続けて縮む風船のなか

鍵失ひて空蟬へ帰れざる

突伏して泣く十月の卓布かな

 

現代女性は仕事や社会的地位に恵まれ、いまや男性以上の活躍が望めることも少なくない。男性よりも多くの選択肢があり充実した状態にあると、多くそのように信じられているのではないだろうか。

現代を謳歌する女性像はCMや雑誌で、ミューズのようなイメージで描かれる。だが、現実を生きる女性は決して、強く充実している一方ではない。時に競争社会に疲れ、自己を見失うこともあるだろう。社会人としての理想が高くあればあるほど、もがき、立ちはだかる壁に打ちしおれることもあるだろう。

強く気勢のある作品群のなかに時折現れる「弱さの一瞬」の句は、現代女性のそうした一場面を想わせるのである。

 

 

 

句集「BABYLON」の一つの特徴として、紀行文ならぬ紀行俳句-旅行先の様々な国の俳句-があろう。その中には北方の句もあるのだが、筆者には南国の句がより鮮明に目に飛び込んできた。これは筆者が北国の人間だからこその視点かもしれない。

 

鉄兜ほどの椰子の実芽吹きをり

パラオ

百獣の闇をはるかに夜食せり

マレーシア

新絹(しんぎぬ)に極楽模様尽くさせよ

ベトナム

踊子の先に砂上の都市あらむ

モロッコ・タンジール

風葬の一族にして夜業人

沖縄・阿嘉島

ドル建ての水をあがなふ星月夜

ベトナム

飛行機を降りて夜食の民の中

ベトナム・ニャチャン

 

 

このように国名が記されてある句以外にも、目くるめく鮮やかな色彩や光の氾濫、熱い空気を感じる作品があった。

 

西瓜割れば赤き夜空と出会ひけり

万華鏡の中を旅せば夜店かな

 

 

一方で、廃墟のような風景を描写する目線も興味深い。

 

虎落笛(もがりぶえ)死せる珊瑚のごと街は

浴槽の捨てられてゐる海市かな

 

 

 

力強く格調高い女性の俳句、精力的に駆けまわる旅行の俳句、そして独特の感覚の鋭さを感じる俳句。

様々な要素の交錯する句集「BABYLON」、なかでも筆者が一番感銘を受けた句が下記である。

 

 

睡蓮に幽閉の空ありにけり

白象とおもふ時雨の山並は

囀りや大陸は箸長くして

サンドイッチはらり倒れててふてふよ

 

 

 

 

句集の最後、物語の締めくくりのようにある一文が印象深い。

 

 

砂上に落ちた、一枚の青い陶片のように。

 

 

私はこの一文が、集中の俳句と同じように好きである。

使命感を帯び疾走する魂が、生を終えて青い陶片となり、砂上に落ちる。

流砂の中に鮮やかに、生の断片のような青い欠片。

後の世の誰かが旅の途中でそれを見つけ、物語を想うのだろう。

 

 

果たしてBABYLONに到達したかどうかは問題ではない。それを指し歩くためのBABYLONなのだと、思う。

 

 

 

御恵贈、真に有難うございました。

 

 

 

 

 


丑丸敬史句集「BALSE(バルス)」 [俳句鑑賞]

 

 

「BALSE(バルス)」は、昨年12月、拙句集とほぼ同時期に上梓された丑丸敬史さんの第一句集である。「BALSE(バルス)」と聞いて思いだすのはやはり、アニメ「天空の城ラピュタ」滅びの呪文だ。

この本はまず、装丁がカッコいい。表紙は、少々くすんだ草色の背景に聖書の一場面のような絵が描かれてある。帯は和風な黄土色。タイトル洋酒銘柄のような英文字で「BALSE」と大きく書かれてある。洋風なタイトルと絵柄に対して、表紙と帯の色の取り合わせが和の感じである。

 表表紙をはがすと本体は革表紙で、こちらは全く洋書のような雰囲気。金の飾り模様や黒の文字。英字のみでタイトル・著者名が書かれてあり、句集というより何かの学術書とか、魔法の書みたい。タイトルのとおり、「滅びの呪文」とか「滅びにいたる理法」とかが書かれてありそうな感じだ。

 章立ても凝っている。最初と最後が聖書の一場面の絵になっている。「太初(はじめ)に言葉ありき」とヨハネ福音書の言葉から始まるこの句集は、きっと作者の深い意図が内包されたものなのだろうと思う。序から始まり一~四章、終章(ちなみに章の番号を示す数字も全て難しい漢字)で成っており、その章によってそれぞれ趣向が違う。序章、一章、終章は一本書、通常の俳句の体をとっているように見えるが、例えば二章では全て安井浩司さんの句を添えて、それを踏まえたうえでの50句詠、三章はすべての句が全部平仮名表記、四章は多行俳句と、凝っている。

 ははあ・・・と、私は思った。これは、おそらく言葉のマッド・サイエンティストたるウシマール博士がコトバ遺伝子をバラバラに分解し、暗室で「ヒッヒッヒッ」と笑いながら、試験管で実験を繰り返していたに違いない。博士の狙いは勿論、コトバのキメラマウスたる俳句を世に送り出すことである。キメラ俳句を世に送り出し、国家転覆を狙っているのだ…!! 

と、これは勿論私の勝手な妄想であり実際の作者様とは一切関係が無い。けれど、そのくらい実験的な、新しさへの挑戦の意図が感じとれる句集なのである。その意図をもっと掘り下げて捉える事のできる読み手もいるだろう。例えば、第四章の多行俳句はアニメ「エバンゲリオン」に因んだ言葉が多く配されているというし、本当は、この句集がこのような章立てがされている意図をもっと感じとることが出来るのだろうと思う。しかし、残念ながら私という人間はあまりそういうことが得意でない。あんまり、そういうことに頭が回らないのである。また、作者の意図は意図として、やはり俳句は俳句作品として読みたいという希望もある。

句集「BALSE」はその造りの奇抜さから、もしかすると意匠的な部分が目立ってしまう作品集なのかもしれないが、そこにとらわれずに読んでも、この句集には佳句が沢山あり十分楽しめると思う。先日刊行された俳句同人誌LOTUS第27号にても「BALSE」句集評がなされているが、ムズカシイ解釈はそちらにまかせて、私はもっぱら、この句集に発見した好きな句をあげて楽しんでみたい。

 

 

自序

晩春やいづこながるるわが

 

序章

五月雨やうすまりゆけるわが

秋艸やかくれながるるわが

わが湯われおきざりに春の野に

 

そして本書の締めくくりの俳句として

寒芹やまだあたたかきわが

 

と、湯シリーズ俳句がある。どこかにアイデンティティへの憧憬というか、懐かしさに対する想いのようなものが柔らかく表現されているようで面白い。湯というものが、愛着を伴ったアイデンティティの一表象のように読みとれるのである。

 

 

序章

 

野遊び

晩春やいづこの水もつながりぬ

 

陶枕

天竺の途にしてくたすももすもも

こはれぬよう晩夏を包む油紙

 

蚊柱

蚊柱に銀河くすぐるこころざし

直腸にかすかにふるる銀河の尾

たへきれず鏡のこぼす花野かな

霜月の夜の電柱のどれがユダ

愛咬のあとにさきたる寒夕燒

 

空蟬

空蟬に地下水脈の記憶かな

 

猫舌

瞑想に罅そだてゐる寒卵

 

受胎告知

胎内にすみれおぼるる夕霞

赤く白くわが道につばきおつ

命終は春の母胎のうすあかり

 

裏側に毛の生えそむる日本地圖

 

 

第二章 

 

擬古文

腐亂死す子怯える春の晩鐘

 

うきぐも

浮雲やうきくさ羽化すゆうくりつど

奥山にもみしだかれし彼氏かな

 

同音で違う意味を持たせる、言葉遊びの要素がある句が並ぶ。

 

敷島

藻の花やさきみだれたる母の舌

春雨や貝塚に母繼ぎ足しぬ

 

敷島とは大和の意であろうが、この項は全ての句に「母」という言葉が使われている。

つづく鷄頭の項では本歌どりならぬ「本句どり」のような句が並ぶ。

 

南風忌

あらめでたサキソフオン忌を荒布干し

黑船忌シチユーにうかぶ妹の數

 

こんな忌日があるの?というような新しい「~忌」の句群。再び言葉遊びの句、同音の言葉に違う意味を思い起こさせるような句が出てくる。この後も荒屋敷(仏教でいう「アラヤシキ」も兼ねていると思われる)、新世紀、皇統譜と、言葉の遺伝子組み換え実験、静かなる乱舞がますます盛んになってくる。

 

荒屋敷

虹鱒の虹より虻はさびしけれ

 

新世紀

敷島は美し武者武者平らげる

使徒使徒と春雨ふれる新世紀

 

皇統譜

荒火屋(あらびあ)の呂律まはらぬながき蛇

蘇瑠旦(するたん)の部屋干しにするするめいか

 

さて、続く二、三、四章は先に述べたとおり意匠に満ちた句群で構成されている。言葉のマッド・サイエンティストたるウシマール博士の研究欲がいよいよ烈しく燃え盛っているようだ。

 

最後、終章でふたたび、一本書通常表記の俳句に戻ってくる。

 

 

終章

 

天使

聖痕のまたひとつふゆ冬銀河

 

冬蟲夏草

直腸を暗喩の桃が流れけり

 

水無月

水無月のしなたりくぼに實梅落つ

木星のにほひに卵われにけり

 

偶数

菜の花やまだ沖合に手を殘し

おしりすのしりの穴よりはるがすみ

偶數の明るさに倦み黄揚羽に

東風ふかば僞王とならん野の鼠

 

春野糞

夢みがちなるまだやはらかき春野糞

春雨やしとどに笑ひ野糞濡れ

 

王朝

閉經のアネモネふゆる王家かな

 

瓢箪

 

東日本大震災に寄す 四句

神もすなるゆすり火遊び人さらひ

瓢箪やなゐもてゆへるあきつしま

やまとてふ浮葉はなゐにそよぎけり

三月やみなそこにをり唄ひけり

 

たけのこ

蓮の根のふれておどろくくにざかひ

 

 

そしてこの句集の最終頁の句は先に述べたとおり

 

寒芹やまだあたたかきわが

 

と、湯の句に帰ってくる。

生まれおちていろんなところを旅してきたけど、原点に戻ってきてふれてみたら、まだ私の産湯はほんのりあたたかいよ、というような締めくくり。そして博士はあらん限り、コトバの細胞実験を尽くした揚句

   「BALSE!(滅びよ)」と唱える。

世界はボン!と爆発して、消滅する。

 

象徴的に、聖人たちが一斉に天空の羊(と思われる動物)を見上げる聖画でこの句集は終わる。

実験の限りを尽くした博士は己が産湯を確かめた後、また新たな創意を始めるのだろう。

 

 

 私が読んだ丑丸敬史句集「BALSE」。それは、言葉の実験者としてあらゆる創意を見せつつ、やわらかく美しい言葉で憧憬に満ちた風景も織り成す。博士は実験はカゲキだけど味付けは和風で上品。日本画のような描線を基底にもっているなあという感じ。

美しい山里を歩きながら時折言語とゲンゴとGENGO情報が錯綜するシャーレのなかに紛れこんでしまう、といった混沌として面白い句集だった。

 

 

文中、作者様のことをマッド・サイエンティスト等と表現したが、それはあくまで私が、この句集を読んで自由に夢想したこと。

実際の作者丑丸さんは、大変理知的な方である。

次回作にてどのような変貌を遂げられるのか、今から楽しみである。

 

バルス!

 

 

 


LOTUS誌より芝不器男賞受賞の2人:作品鑑賞 [俳句鑑賞]

 

 

 

一睡に五月と叫ぶ蛇口あり  表 健太郎

 

 

奇妙な句である。一睡、ふとまどろんだ一瞬に、だろうか。蛇口が「五月!」と叫んだというのだ。

まるで白昼夢のようだ。何故「五月」と叫んだのか、そして叫んだのが何故「蛇口」なのか、一切は不明である。

例えば「蛇口」を何かの暗喩と解し、意味的に読み解く方法もあるだろう。しかし、そのような読み方があると考えても、やはりこの句は謎が多い。掲句は、腑に落ちる何か、意味のとおる何かを与えてくれるわけではないのである。

 

であるにも関わらず私はこの句から目が離せない。この句を読むと、耐えがたい眠気のなか正気から眠りへ滑り落ちる切岸を、無機質な蛇口が鋭く光り、突然開いて水を放出し、「五月!」と発声する画を想ってしまうのである。その画の謎に惹きつけられ、この句を考え続けてしまう。

俳句の中の言葉は互いに、よほど気をつけないと安易に意味繋がりをもち、どうとでも通俗的な読み方を可能にしてしまう面がある。それが巧妙に回避された句を読む時よく起こることなのだが、言葉の音が意味から乖離し、類似した音をもつ他の語へうっすらと繋がっていく。

例えば私にはこの句の「一睡」が、ふとした隙に「一斉」とすりかわって見えてしまうのである。誤読と言ってしまえばそれまでだが、こうした音の類似、つながりは意外と読みに影響を与えてくる。そんなことは書かれていないにも関わらず、単数ではなく多数の蛇口がずらりと一斉に叫ぶ様をも、同時に浮かべてしまうのである。

そして、この句の謎は残り続ける。

 

 

 

五月雨や頭ひとつを持ち歩き  曾根 毅

 

薄暗い五月雨の中を歩いている。それも「頭ひとつを」持ち歩いているというのである。頭を持って歩いていたら手が塞がって傘は持てないだろう。人物は陰鬱な雨の中をごろりと生温かい首をもち、宛所なく歩いている。「頭ひとつが掌にある」ことの描写によって、では歩いている本体には首がないのか、あったとしても強い虚脱の状態で彷徨のように歩いていることを感じさせる。明らかな意味を示さないが、基底に救いようのない虚無感を感じさせるところが恐ろしい力のある句である。

 

 

今年三月一一日、表氏は芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞、曾根氏は同大賞を受賞された。

「意味」で終わらない句、はっきりと捉えることが出来る感覚と無意識との、皮膚一枚のあわいのような句、常に読みを問い続けるような句。そのような作品を創作し続ける二人に栄冠が与えられたことを心より祝福し、今後の創作活動のさらなる発展を願っている。

お目出度う御座います。

 

 

 

 

 

曾根毅 芝不器男新人賞

受賞作品

http://fukiosho.org/archive/arc04/04_033.pdf

 

 

 

表健太郎 芝不器男城戸朱理奨励賞

受賞作品

http://fukiosho.org/archive/arc04/04_036.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オマケ) 佐々木貴子作品

同賞一次選考通過

http://fukiosho.org/archive/arc04/04_061.pdf

 

(またガンバリマス!)

 

 

 


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