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つちふるや嫌な奴との生きくらべ  藤田湘子 [俳句鑑賞]

 

 

つちふるや嫌な奴との生きくらべ  藤田湘子

 

 

 

世の中は不思議だ。害を加える側が生き伸び、根をはっていく。

いじめられた方は自信を失い、自尊感情を損なって、ずっとずっと病みっぱなしになり、社会に出ていけなくなることだって少なくない。

いじめた方はどうかというと、余程の重大事件を起こさない限り「あの人は~~・・・」等と陰口をきかれることはあっても、例えば会社なら仕事を続けそれなりに社会生活を保っていけるし、学校ならば学業を続けられて、順調に卒業し学位をおさめるだろう。

一方で、加害された方こそが全てを失っていくことが世に少なくない。

 

私の知る限り世間は、清く正しく、積極的に加害などしないでやられた方よりも、我を出して出して人を己の我に巻き込んで、病ませるほどに力をふるった方が残っていく。

考えてみれば歴史だって、迫害し、邪魔なものを駆逐した側が好き勝手なことを語り続けた結果なのだから、やっぱりこの世はどんなに「法治国家」等と建前ぶってみても、根本的には品の悪い弱肉強食世界なのである。

 

この句の「私」にも「嫌だ」と思う奴がいる。恐らくどんな人間にも「嫌だ」と思う奴がいるだろう。利害の合わないところに対立が生まれ、必ずいつもどこかで「嫌な奴」合戦が繰り広げられているのだ。

「嫌な奴」のことを考えると善良な「私」は気持ちが引っ込みそうになる。こんな奴とは関わりたくないとばかりに、自分の方こそが社会から退いて、ひきこもってしまいたくなる。

 

しかし、そんなわけにはいかない。閉じこもってしまえばこの世では負け。どんどん縮小していくのは自分自身の生なのである。

世の中にはその「嫌な奴」のために自死までしてしまう人がいる。自死は周囲の人の心に大きな影を残す。友人や恋人、親や兄弟のように親身な間柄であったなら、ずっと心に重いものを抱え生きていくことも少なくないだろう。あるいは、当の「嫌な奴」の心にも、死をもって多少の痣を残すかもしれない。

 

しかし死とは、時間とともに記憶や感情が薄れていってしまうものでもある。記憶が薄れゆくこと、それが生きる人間の側の健全な心の在り様でもあり、生きていかざるを得ない人間には必然的な心の道理ともいえる。

誰かの死によって深手を負ったとしても、多くの場合、数年もすれば記憶は生者にとっておさまりやすい色調に褪せ、描きかえられて、人は死者を忘れることはないけれど笑って日々をすごす。

そのような様を見ると、どんなに馬鹿を見ても自ら死ぬのは損だと思ったりする。

 

この句の「私」も、生死までは考えていないとしても、やはり「嫌な奴」には負けまいと思っている。「嫌な奴」大いにけっこう。「私」もあなたにとっての、あるいは「嫌な奴」となって、どこまでも生きてやろうじゃないか。

非常に重い胆力を感じる中7下5である。

 

しかし、ここで、「つちふるや」だ。

「つちふる」とは春、空から砂塵が降ること。中国大陸の黄河流域の砂や土が春風に舞い上がり、海を越えて降りしきり、ときに遠くが黄色く霞んで見えること、霾曇(よなぐもり)のことである。

この句の「私」の前に黄色くもやもやした黄砂の大気がある。嫌な奴を思い、いやさ、己もしぶとく生きてやろうと思いながらも、「私」の胸に渦巻くものは穏やかではない。黄砂のように黄色く汚れ渦巻いている。

 

あるいは、この胆力をもって眼前の霾曇を吹き飛ばしてやろうという気概があるのかもしれない。

しかし、そのいずれであっても「生きくらべ」を決意する心境とは結局のところ、「嫌な奴」に強く意識がおかれてあるのであって、そこから自由にはなっていないのだ。

強くしぶとく、善良さを犠牲にしてまでも生きてやろうとたくらむ心持はたのもしい。

しかし、一方で果たして、これでいいのだろうか。

 

 

そんな、人間(じんかん)に生きるリアルな人間の様を思わせる句だ。

 


青山茂根句集「BABYLON」 [俳句鑑賞]

 

 

羽ひらく孔雀のごとき湯ざめかな

 

湯冷めの皮膚感覚。ひやひやと体表から温度が失われ、自らは無防備に裸体をさらけだしている。羽ひらく時孔雀は最も美しいが、同時に最も無防備な姿であろう。

 

 

青山茂根句集「BABYLON」には、力強さと格調のある句が多くみられる。

 

流氷は嘶(いなな)きをもて迎ふべし

螺髪(らほつ)へと流星還りくるころか

偶像は捨てよ胡蘿蔔(にんじん)太らせよ

絨緞の上に反乱をさめけり

上陸の夜を梟に迎へらる

まなじりのくれなゐ流れたり金魚

初夢のなか崩落の響きあり

 

 

 

敗北を表現した句にも、誇り高さが漂う。

 

夕焼の底に敗者は横たはる

落城のごとく毛虫を焼きにけり

 

 

闘いのなか追いつめられているような、切迫感を感じる作品もある。

 

恵方道までも火の粉が追つてくる

西へ西へと向日葵を倒しつつ

うばひあふなり誘蛾灯倒すまで

 

一体何に追われ、また、自らは何を追うのだろうか。

追うこと追われることは表裏一体であり、その背景に使命感ともいうべき意志の存在を感じる。

 

 

 

気力意志力、背筋を伸ばした姿の青山茂根作品であるが、時にふっと弱気の瞬間が現れることもある。

 

夕焼を処方されたる家路かな

もがき続けて縮む風船のなか

鍵失ひて空蟬へ帰れざる

突伏して泣く十月の卓布かな

 

現代女性は仕事や社会的地位に恵まれ、いまや男性以上の活躍が望めることも少なくない。男性よりも多くの選択肢があり充実した状態にあると、多くそのように信じられているのではないだろうか。

現代を謳歌する女性像はCMや雑誌で、ミューズのようなイメージで描かれる。だが、現実を生きる女性は決して、強く充実している一方ではない。時に競争社会に疲れ、自己を見失うこともあるだろう。社会人としての理想が高くあればあるほど、もがき、立ちはだかる壁に打ちしおれることもあるだろう。

強く気勢のある作品群のなかに時折現れる「弱さの一瞬」の句は、現代女性のそうした一場面を想わせるのである。

 

 

 

句集「BABYLON」の一つの特徴として、紀行文ならぬ紀行俳句-旅行先の様々な国の俳句-があろう。その中には北方の句もあるのだが、筆者には南国の句がより鮮明に目に飛び込んできた。これは筆者が北国の人間だからこその視点かもしれない。

 

鉄兜ほどの椰子の実芽吹きをり

パラオ

百獣の闇をはるかに夜食せり

マレーシア

新絹(しんぎぬ)に極楽模様尽くさせよ

ベトナム

踊子の先に砂上の都市あらむ

モロッコ・タンジール

風葬の一族にして夜業人

沖縄・阿嘉島

ドル建ての水をあがなふ星月夜

ベトナム

飛行機を降りて夜食の民の中

ベトナム・ニャチャン

 

 

このように国名が記されてある句以外にも、目くるめく鮮やかな色彩や光の氾濫、熱い空気を感じる作品があった。

 

西瓜割れば赤き夜空と出会ひけり

万華鏡の中を旅せば夜店かな

 

 

一方で、廃墟のような風景を描写する目線も興味深い。

 

虎落笛(もがりぶえ)死せる珊瑚のごと街は

浴槽の捨てられてゐる海市かな

 

 

 

力強く格調高い女性の俳句、精力的に駆けまわる旅行の俳句、そして独特の感覚の鋭さを感じる俳句。

様々な要素の交錯する句集「BABYLON」、なかでも筆者が一番感銘を受けた句が下記である。

 

 

睡蓮に幽閉の空ありにけり

白象とおもふ時雨の山並は

囀りや大陸は箸長くして

サンドイッチはらり倒れててふてふよ

 

 

 

 

句集の最後、物語の締めくくりのようにある一文が印象深い。

 

 

砂上に落ちた、一枚の青い陶片のように。

 

 

私はこの一文が、集中の俳句と同じように好きである。

使命感を帯び疾走する魂が、生を終えて青い陶片となり、砂上に落ちる。

流砂の中に鮮やかに、生の断片のような青い欠片。

後の世の誰かが旅の途中でそれを見つけ、物語を想うのだろう。

 

 

果たしてBABYLONに到達したかどうかは問題ではない。それを指し歩くためのBABYLONなのだと、思う。

 

 

 

御恵贈、真に有難うございました。

 

 

 

 

 


丑丸敬史句集「BALSE(バルス)」 [俳句鑑賞]

 

 

「BALSE(バルス)」は、昨年12月、拙句集とほぼ同時期に上梓された丑丸敬史さんの第一句集である。「BALSE(バルス)」と聞いて思いだすのはやはり、アニメ「天空の城ラピュタ」滅びの呪文だ。

この本はまず、装丁がカッコいい。表紙は、少々くすんだ草色の背景に聖書の一場面のような絵が描かれてある。帯は和風な黄土色。タイトル洋酒銘柄のような英文字で「BALSE」と大きく書かれてある。洋風なタイトルと絵柄に対して、表紙と帯の色の取り合わせが和の感じである。

 表表紙をはがすと本体は革表紙で、こちらは全く洋書のような雰囲気。金の飾り模様や黒の文字。英字のみでタイトル・著者名が書かれてあり、句集というより何かの学術書とか、魔法の書みたい。タイトルのとおり、「滅びの呪文」とか「滅びにいたる理法」とかが書かれてありそうな感じだ。

 章立ても凝っている。最初と最後が聖書の一場面の絵になっている。「太初(はじめ)に言葉ありき」とヨハネ福音書の言葉から始まるこの句集は、きっと作者の深い意図が内包されたものなのだろうと思う。序から始まり一~四章、終章(ちなみに章の番号を示す数字も全て難しい漢字)で成っており、その章によってそれぞれ趣向が違う。序章、一章、終章は一本書、通常の俳句の体をとっているように見えるが、例えば二章では全て安井浩司さんの句を添えて、それを踏まえたうえでの50句詠、三章はすべての句が全部平仮名表記、四章は多行俳句と、凝っている。

 ははあ・・・と、私は思った。これは、おそらく言葉のマッド・サイエンティストたるウシマール博士がコトバ遺伝子をバラバラに分解し、暗室で「ヒッヒッヒッ」と笑いながら、試験管で実験を繰り返していたに違いない。博士の狙いは勿論、コトバのキメラマウスたる俳句を世に送り出すことである。キメラ俳句を世に送り出し、国家転覆を狙っているのだ…!! 

と、これは勿論私の勝手な妄想であり実際の作者様とは一切関係が無い。けれど、そのくらい実験的な、新しさへの挑戦の意図が感じとれる句集なのである。その意図をもっと掘り下げて捉える事のできる読み手もいるだろう。例えば、第四章の多行俳句はアニメ「エバンゲリオン」に因んだ言葉が多く配されているというし、本当は、この句集がこのような章立てがされている意図をもっと感じとることが出来るのだろうと思う。しかし、残念ながら私という人間はあまりそういうことが得意でない。あんまり、そういうことに頭が回らないのである。また、作者の意図は意図として、やはり俳句は俳句作品として読みたいという希望もある。

句集「BALSE」はその造りの奇抜さから、もしかすると意匠的な部分が目立ってしまう作品集なのかもしれないが、そこにとらわれずに読んでも、この句集には佳句が沢山あり十分楽しめると思う。先日刊行された俳句同人誌LOTUS第27号にても「BALSE」句集評がなされているが、ムズカシイ解釈はそちらにまかせて、私はもっぱら、この句集に発見した好きな句をあげて楽しんでみたい。

 

 

自序

晩春やいづこながるるわが

 

序章

五月雨やうすまりゆけるわが

秋艸やかくれながるるわが

わが湯われおきざりに春の野に

 

そして本書の締めくくりの俳句として

寒芹やまだあたたかきわが

 

と、湯シリーズ俳句がある。どこかにアイデンティティへの憧憬というか、懐かしさに対する想いのようなものが柔らかく表現されているようで面白い。湯というものが、愛着を伴ったアイデンティティの一表象のように読みとれるのである。

 

 

序章

 

野遊び

晩春やいづこの水もつながりぬ

 

陶枕

天竺の途にしてくたすももすもも

こはれぬよう晩夏を包む油紙

 

蚊柱

蚊柱に銀河くすぐるこころざし

直腸にかすかにふるる銀河の尾

たへきれず鏡のこぼす花野かな

霜月の夜の電柱のどれがユダ

愛咬のあとにさきたる寒夕燒

 

空蟬

空蟬に地下水脈の記憶かな

 

猫舌

瞑想に罅そだてゐる寒卵

 

受胎告知

胎内にすみれおぼるる夕霞

赤く白くわが道につばきおつ

命終は春の母胎のうすあかり

 

裏側に毛の生えそむる日本地圖

 

 

第二章 

 

擬古文

腐亂死す子怯える春の晩鐘

 

うきぐも

浮雲やうきくさ羽化すゆうくりつど

奥山にもみしだかれし彼氏かな

 

同音で違う意味を持たせる、言葉遊びの要素がある句が並ぶ。

 

敷島

藻の花やさきみだれたる母の舌

春雨や貝塚に母繼ぎ足しぬ

 

敷島とは大和の意であろうが、この項は全ての句に「母」という言葉が使われている。

つづく鷄頭の項では本歌どりならぬ「本句どり」のような句が並ぶ。

 

南風忌

あらめでたサキソフオン忌を荒布干し

黑船忌シチユーにうかぶ妹の數

 

こんな忌日があるの?というような新しい「~忌」の句群。再び言葉遊びの句、同音の言葉に違う意味を思い起こさせるような句が出てくる。この後も荒屋敷(仏教でいう「アラヤシキ」も兼ねていると思われる)、新世紀、皇統譜と、言葉の遺伝子組み換え実験、静かなる乱舞がますます盛んになってくる。

 

荒屋敷

虹鱒の虹より虻はさびしけれ

 

新世紀

敷島は美し武者武者平らげる

使徒使徒と春雨ふれる新世紀

 

皇統譜

荒火屋(あらびあ)の呂律まはらぬながき蛇

蘇瑠旦(するたん)の部屋干しにするするめいか

 

さて、続く二、三、四章は先に述べたとおり意匠に満ちた句群で構成されている。言葉のマッド・サイエンティストたるウシマール博士の研究欲がいよいよ烈しく燃え盛っているようだ。

 

最後、終章でふたたび、一本書通常表記の俳句に戻ってくる。

 

 

終章

 

天使

聖痕のまたひとつふゆ冬銀河

 

冬蟲夏草

直腸を暗喩の桃が流れけり

 

水無月

水無月のしなたりくぼに實梅落つ

木星のにほひに卵われにけり

 

偶数

菜の花やまだ沖合に手を殘し

おしりすのしりの穴よりはるがすみ

偶數の明るさに倦み黄揚羽に

東風ふかば僞王とならん野の鼠

 

春野糞

夢みがちなるまだやはらかき春野糞

春雨やしとどに笑ひ野糞濡れ

 

王朝

閉經のアネモネふゆる王家かな

 

瓢箪

 

東日本大震災に寄す 四句

神もすなるゆすり火遊び人さらひ

瓢箪やなゐもてゆへるあきつしま

やまとてふ浮葉はなゐにそよぎけり

三月やみなそこにをり唄ひけり

 

たけのこ

蓮の根のふれておどろくくにざかひ

 

 

そしてこの句集の最終頁の句は先に述べたとおり

 

寒芹やまだあたたかきわが

 

と、湯の句に帰ってくる。

生まれおちていろんなところを旅してきたけど、原点に戻ってきてふれてみたら、まだ私の産湯はほんのりあたたかいよ、というような締めくくり。そして博士はあらん限り、コトバの細胞実験を尽くした揚句

   「BALSE!(滅びよ)」と唱える。

世界はボン!と爆発して、消滅する。

 

象徴的に、聖人たちが一斉に天空の羊(と思われる動物)を見上げる聖画でこの句集は終わる。

実験の限りを尽くした博士は己が産湯を確かめた後、また新たな創意を始めるのだろう。

 

 

 私が読んだ丑丸敬史句集「BALSE」。それは、言葉の実験者としてあらゆる創意を見せつつ、やわらかく美しい言葉で憧憬に満ちた風景も織り成す。博士は実験はカゲキだけど味付けは和風で上品。日本画のような描線を基底にもっているなあという感じ。

美しい山里を歩きながら時折言語とゲンゴとGENGO情報が錯綜するシャーレのなかに紛れこんでしまう、といった混沌として面白い句集だった。

 

 

文中、作者様のことをマッド・サイエンティスト等と表現したが、それはあくまで私が、この句集を読んで自由に夢想したこと。

実際の作者丑丸さんは、大変理知的な方である。

次回作にてどのような変貌を遂げられるのか、今から楽しみである。

 

バルス!

 

 

 


句集ユリウス、朗読していただきました! [句集「ユリウス」]

拙句集「ユリウス」をお読みくださった方が、集中10句を朗読してくださいました。

これを聴いて、私はとても感動しました。

俳句の朗読って、考えたことはあるけどあまりやってみたことがありませんでした。

それを、まさか自句が、人に音声で表現してもらえるとは思っていませんでした。

しかも、お若い女性に、遠くの、お会いしたことの無い方に読んでいただけるとは・・・感動でいっぱいです。

とてもクリアで良いご発声で、句によって読み方や声のトーンを変えていらっしゃる様。

すごいなあと感心しました。

そして、自句に対するご感想を文字で読ませていただくときとはまた違う感動がありました。

新鮮でそれでいて気恥ずかしく、けれど読まれている音声を聴くに従って、自句の新たな側面、もしくは前からそこにあったけど気づいていなかった側面が、ページをめくるように表れるのを感じました。

まだドキドキしているので、自分でもまだ、全ては受け止めきっていない感じです。

ともかくも、本当に嬉しく、新鮮な出来事でした。

森明穂さんによる句集「ユリウス」10句朗読は、こちらです。

https://soundcloud.com/akiho/1zaewjdgypya

明穂さん、本当に有難うございました。

俳句は読み手の方にいかしてもらうものだと、改めて実感しました。

句集を出させていただいて、良かったです。


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