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句集ユリウス掲載ブログ③ [句集「ユリウス」]

 

 

 

前回に引き続き、句集「ユリウス」についてお取り上げくださったブログをご紹介します。

皆さんの文のそれぞれが、とても創造性に満ちていて読んでいて楽しくなります。

文体、選句、感性、みんな個々に違っていて、とても面白いのです。

自句の様々に散らばった面、その破片をいろいろな方が少しずつ完成させてくれているように感じます。

 

毎度のことながら、本当に、有り難く思います。

 

 

 

mojolovichさんブログ おるがすむ  

「ユリウス」佐々木貴子句集

 

http://mojolovich.livedoor.biz/archives/37484776.html

 

 

 

相子智恵さん ウラハイ=裏「週刊俳句」 

月曜日の一句

 

http://hw02.blogspot.jp/2014/03/blog-post_10.html

 

 

 

鈴木牛後さんブログ 本日も深雪晴 

佐々木貴子句集「ユリウス」

 

http://miyukibare.exblog.jp/19567514/

 

 

 

鉄塊 ブログ 藤井雪兎さん 

詩の言葉としての季語 佐々木貴子句集「ユリウス」

 

http://haiku-free.blogspot.jp/2014/03/blog-post_15.html

 

 

 

 

 

皆様のご厚意に深く感謝申し上げます。

 

 作者佐々木貴子

 

 

 


LOTUS誌より芝不器男賞受賞の2人:作品鑑賞 [俳句鑑賞]

 

 

 

一睡に五月と叫ぶ蛇口あり  表 健太郎

 

 

奇妙な句である。一睡、ふとまどろんだ一瞬に、だろうか。蛇口が「五月!」と叫んだというのだ。

まるで白昼夢のようだ。何故「五月」と叫んだのか、そして叫んだのが何故「蛇口」なのか、一切は不明である。

例えば「蛇口」を何かの暗喩と解し、意味的に読み解く方法もあるだろう。しかし、そのような読み方があると考えても、やはりこの句は謎が多い。掲句は、腑に落ちる何か、意味のとおる何かを与えてくれるわけではないのである。

 

であるにも関わらず私はこの句から目が離せない。この句を読むと、耐えがたい眠気のなか正気から眠りへ滑り落ちる切岸を、無機質な蛇口が鋭く光り、突然開いて水を放出し、「五月!」と発声する画を想ってしまうのである。その画の謎に惹きつけられ、この句を考え続けてしまう。

俳句の中の言葉は互いに、よほど気をつけないと安易に意味繋がりをもち、どうとでも通俗的な読み方を可能にしてしまう面がある。それが巧妙に回避された句を読む時よく起こることなのだが、言葉の音が意味から乖離し、類似した音をもつ他の語へうっすらと繋がっていく。

例えば私にはこの句の「一睡」が、ふとした隙に「一斉」とすりかわって見えてしまうのである。誤読と言ってしまえばそれまでだが、こうした音の類似、つながりは意外と読みに影響を与えてくる。そんなことは書かれていないにも関わらず、単数ではなく多数の蛇口がずらりと一斉に叫ぶ様をも、同時に浮かべてしまうのである。

そして、この句の謎は残り続ける。

 

 

 

五月雨や頭ひとつを持ち歩き  曾根 毅

 

薄暗い五月雨の中を歩いている。それも「頭ひとつを」持ち歩いているというのである。頭を持って歩いていたら手が塞がって傘は持てないだろう。人物は陰鬱な雨の中をごろりと生温かい首をもち、宛所なく歩いている。「頭ひとつが掌にある」ことの描写によって、では歩いている本体には首がないのか、あったとしても強い虚脱の状態で彷徨のように歩いていることを感じさせる。明らかな意味を示さないが、基底に救いようのない虚無感を感じさせるところが恐ろしい力のある句である。

 

 

今年三月一一日、表氏は芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞、曾根氏は同大賞を受賞された。

「意味」で終わらない句、はっきりと捉えることが出来る感覚と無意識との、皮膚一枚のあわいのような句、常に読みを問い続けるような句。そのような作品を創作し続ける二人に栄冠が与えられたことを心より祝福し、今後の創作活動のさらなる発展を願っている。

お目出度う御座います。

 

 

 

 

 

曾根毅 芝不器男新人賞

受賞作品

http://fukiosho.org/archive/arc04/04_033.pdf

 

 

 

表健太郎 芝不器男城戸朱理奨励賞

受賞作品

http://fukiosho.org/archive/arc04/04_036.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オマケ) 佐々木貴子作品

同賞一次選考通過

http://fukiosho.org/archive/arc04/04_061.pdf

 

(またガンバリマス!)

 

 

 


大石雄鬼句集「だぶだぶの服」 [俳句鑑賞]

 

 

大石雄鬼さんは陸誌における大先輩であり、ご多忙のなか現在陸の編集長を務められている。

私が東京で大学生活をしていた頃、もう十数年も前になるが、句会を御一緒させていただいたこともある。

句集「だぶだぶの服」は平成24年秋に刊行された第一句集であり、25年間の句作の中から364句が納められた作品集だ。

 

句集をブログで鑑賞するにあたり、自分はなるだけ人間関係的な要素を絡めまいと思っているのだけれど、大石さんは十数年も先輩としてその背中を追ってきた方だし、ちょっとの思い出話くらいは良いだろう…許してくださいと思いつつ、この句集鑑賞を書きたいと思う。

句集「だぶだぶの服」の沢山の佳句のなかから、今の自分の感性にヒットする句を紹介させていただきたい。

 

 

 

花野より後ろ姿となりにけり

炬燵に穴のこして海を見にゆけり

夢見ても冷たき瞼鳥交る

虹の空ほういほういと皿洗ふ

象の頭に小石の詰まる天の川

犀は角見ながら育つ冬銀河

ピアノの奥に湾の広がる帰燕かな

もろこしを喰ひし胸より垢生まる

火薬庫の前を玉葱さげてくる

羊なんだかなんだか歩く聖五月

国道の端のめくれて蟇

でで虫の体内を眼が走りたる

 

 

「炬燵に穴のこして海を見にゆけり」の句、炬燵にぽかと残された穴から海という広々とした空間へ、ぱあっと突然開けるところが好きだ。二つの場所は異質なのに、一句の中に共存している。

上に挙げた句、謎が残る句も多い。一句の中に要素が多いと感じるものも。しかし、それらがさらりと一つにおさまって、空間や時間の不思議な変移を産みだしている。

 

 

東京句会に参加していた頃初学だったこともあり、自分は大石さんの句がよく分からなかった。若い感性の句として陸の先輩諸氏からいつも大人気だったが、自分には読み方が分からなかったのである。() 

あくまで自分が見聞きしてきた思い出なので他の方の認識と異なっているかもしれないが、同じ頃、中村和弘先生の俳句は、主に青森でだったろうか、難解だ難解だと言われていた。自分としても到底解釈などできなくて確かに難解だと思ったのだが、妙に力感と映像感が圧してきて句会でついとってしまっていたのを覚えている。

同じく解釈が難解でも、大石さんの句の方はより感性的な、と感じていたのを覚えている。

表現としての好悪、良悪の話ではなく、私はそのように自分と大石さんとの感性の違いを感じた。もしくは表現の通路の違いを。当時の自分には大石さんの感性の表出はまったくキャパシティになかったのだ。

少々思い出話になってしまったが、句の紹介を続けたい。

 

 

 

身体を外側から捉えたり、身体感覚への内向きの意識を感じる作品。

 

冬花火からだのなかに杖をつく

盲腸のあたりで手毬ついてをり

花吹雪ふところの手の恐ろしき

夏痩せてメリーゴーランドと沈む

とんかつの荒野が口にある遅日

 

花吹雪の句、「ふところの手」はあるいは他人のそれなのかとも思うが、私は「己のふところにある己自身の手が」として読んだ。己の体なのに感じる異物感、体が体であることに対する畏怖といったらよいのだろうか。

メリーゴーランドの句は、自分の姿を外側から眺めるような視線を感じる。

とんかつの句は、とんかつの衣のざらざらした感じが口いっぱいに、それが荒野というものの質感に重なりながら広い空間へ変移していくのが面白い。さらに遅日とまである。

大石さんの作品には、ここで紹介した句以外にも、体そのものや体の中の感覚を捉えていて、そのどれもが妙に客観的であり力の抜けた面白みのものが多数ある。

 

 

 

 

こちらは私にとって思い出深い句。

 

株価の底割れて土筆の生えてをり

原子力発電所から春の鹿

 

「株価の底割れて土筆の生えてをり」は、東京時代、中村先生や瀬間陽子さん、大石さんほか、陸以外の方々が参加する少人数句会で出されたのを覚えている。

当時、時事的にこのような背景があった。私は選句の時、この句を上手いな、面白いなと思った。土筆が生える時、地面が罅割れたようになる。その様が眼に浮かび、株価の底と重なったことに驚きを感じた。しかし時事をうまく捉えて少々癪だなと思ったりもし、() 確かとらなかったように思う。そんなことを覚えている。

「原子力発電所から春の鹿」は、もう何年前になるか、陸誌上で発表されて評判になった。シンプルなつくりの句だが、とても印象に残る句だ。

 

 

最後にこの句を。

 

田川飛旅子先生 逝去

棕櫚咲けり大きな骨を師が残し

 

 

私は田川飛旅子先生にお会いしたことがない。私が陸に参加した頃には既にお亡くなりで、句のうえでしか存じ上げない先生だ。

大石さんは田川先生からどのような教えを受けたのだろうか。

大きな骨も、田川先生がよく句に詠まれていたという棕櫚も、決して甘い存在感のものではない。

大石さんが田川先生から受け取ったであろうこと。きっと大石さんだけが知っているのだろう。

 

 

 

貴重な御句集を有難うございました。

 


蝶と犀とのお花見 [俳句論]

俳句の中によくつかわれるモチーフがある。

蝶とか、犀とか。

蝶はもう、頻出だろう。

犀はともかく、蝶は誰もが一度は見たことがあり、実物を知っているだろう。

一方で犀は、動物園で実際に見たことのある人もいるかもしれないが、

テレビ番組や図鑑等で目にすることが多い動物だろう。

犀に関して言えば、自分は実物を知らないのに犀をつかった俳句を書きたがったり、犀が描かれた句を読んでなんとなく解釈したりしている。

自分に限って言えば、完全に「犀のイメージ」だけで句を読んでいるのである。

一方で蝶は、先述したように非常に多くの人が一度はその実物を目にしている。

しかし、様々な俳句にこれだけの蝶の頻出、蝶は現実存在としてのそれを超えて、

イメージの飛躍のもとにつかわれている、と感じる。

これだけ人の想像力を刺激する、もしくは「イメージ力」のある

蝶なり犀なり、その動物のもつ象徴性に感心するとともに、

一寸、これで果たしていいのかと思ったりもする。

詠む側も読む側も、蝶や犀を用いるとき、ほぼ無意識のうちにつかっていることが多いのではないか。

つまり、自分がここに書いている(または読んでいる)「犀(ないし蝶)」は、はて、物語や写真のイメージを基にしているのかいな。

そういうことに自覚的な場合もあれば、知らぬ間にイメージだけで書いている場合もあるだろう、と感じるのである。

別な動物を例に出せば、白鳥はどうだろうか。

自分は海辺の町に30年以上住み、毎年嫌というほど白鳥を間近にみている。

現実の彼ら彼女らは、意外と美しくない。

しかしそのことを知っていたり、現実の姿を強烈に覚えてしまっているのは、

私のように白鳥飛来地の海辺に住んでいる者だけかもしれない。

他の温暖な地域の方は、「白鳥の湖」など、詩や物語から受けたイメージをもとに

白鳥の句をつくるかもしれないのである。

念のために申し上げると、決してイメージをもとに句をつくることを否定しているわけではないのである。

そうして書かれた句も十分に面白いものがたくさんあるからだ。

しかし、イメージをもとに詠み、読みあっている場合の「それ」は、一体どうしたらいいのかという漠然とした疑問をもっている。

なにより、言葉はどこへ行くのだろう?

率直に物を表すのが言葉だとすると、読み手はそれをつかって創作した作品からさらに多様なイメージを受け取るだろう。

言葉によって創作された作品を読み合うことによって、その言葉のイメージは二次創作されていく。

その二次創作された言葉のイメージからさらに句がつくられる。

句として跳躍の可能性を感じるとともに、それでは、言葉そのものはどうなっていくのだろうか、と。

この疑問には当分答が出そうにない。

うーん


太陽の暗部 [なんとなくの話]

目が覚める直前に見ていた夢が面白かった。

自分は一人暮らしにはもったいないほどの広い部屋を与えられた。

ベッドなど調度を整え人気がないけどマイペースな生活を始める。

けれど、大切なのはPCである。

夕暮過から夜の暗い中でだったか、PCの前にじっと座り、画像を矯めつ眇めつみてクリック、クリックしている。

それは太陽の写真である。

漆黒の辺縁の真中に強烈に橙の太陽が浮かんでいる。その画像にものすごく掻きたてられて見入っている。

画像の一部をクリックすると拡大画像が現れる。

太陽と黒い辺縁の境目を指した時はそのクローズアップ写真。黒と橙の強烈なコントラスト。

うっかり間違って太陽の中そのものを指してしまうと、ぐらぐらと恐ろしい橙の光が現れる。

光の凹凸であり、時折静止画像ではなくて光の運動が現れる。

その恐ろしさに見入りながらも、エネルギーがPCを乗り出して、画面が壊れるのではないかと恐ろしくなって、

慌ててまた、別のポイントをクリックしてみたりする。

太陽の真中も、辺縁の暗さもどちらも怖いのである。が、強烈に掻きたてられて眼が離せない。

そうやって延々と、太陽の画像をみている夢。

こんなふうに時々、夢の中でしかみられない画像が現れる。

とても印象的で、書き留めたくなるのだ。


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