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現俳協 俳句バーサス視覚VS聴覚 レポート②後半 [俳句論]

(後半のはじまり)

司会者田島さんより

ここまで視覚聴覚について各論話されたことを踏まえ、改めて俳句にとって重要なことはなんだろうかという問いかけがあり、

 

 

九堂夜想さん

 

もろもろ書手の立場、読手の立場からの論があったことを踏まえたうえで、しかし最終的に自分は、重要なのは言葉であると思う。単に視覚的に、ということではないが、「書かれた言葉」が重要であると思う。

それが書かれた過程や心情ではなく、書かれた言葉(=エクリチュール)そのものを見て読手は読む、汲み取る、そこで(読んで鑑賞の中で心や頭の中に)音が鳴るかどうかは人それぞれであると思うが、書かれていたのがオノマトペであっても楽器という言葉であっても、人は「書かれたこと」を見、そこから喚起する。

 

 

再度、感覚としての視覚聴覚の話へ戻ります。

四ッ谷龍さんのお話の続きへ

 

 

四ッ谷龍さん

 

共感覚(一種類の刺激から異なる種類の感覚を生じさせる知覚現象。文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりするなど)という感覚があるが、まさにそのように、感覚とはもともと繋がっているものだと思う。ゾウリムシなどの原生的な動物は視覚も聴覚も分かれていなかった。それが発達もしくは退化によってで分化した。

そのように、感覚をまたがる感覚というものがあるのではないか。これは19世紀末からある文学の一つの重大なテーマであり、これから俳句で開拓されるべきことはこの、クロス・モダリティ(=感覚を跨ぐ)ことではないかと思う。

 

クロスモーダルな(感覚をまたがる)句の例として

○敷石をしろがねとしぬ落葉掻 斉木直哉

○天網は冬の菫の匂かな 飯島晴子

○空海の筆跡のごと汗ばみぬ 冬野虹

○蛋白石(オパール)の中なる水もぬるむなり 関悦史

がある。こうしたクロスモーダルな句はあまりない。配合や、同一モーダルでの広がりや、擬人法、寓意とは似てはいるけれども違うものである。

このようなクロスモーダルな句は、脳を中心としたピラミッド的な世界観を崩し、感覚とは自由につながるのだということが感じられ、大変素晴らしいものだと思う。

 

 

 

小山森生さん

 

聴覚は直接的・身体的なもの、視覚は経験的なもの、論理回路を通って伝わってしまう気がする。

例えば実際生活で、悲鳴には反射的に反応できるが、悲鳴が起きたその現場を目にしても理解と反応に一定の時間がかかるのではないか。

自分は俳句を詠む時でも、直接身体に訴えたいときは聴覚、音韻を利用しており、一方、視覚は経験など過去のものと結びつき、迂回しているところがあると思う。

例えば「家電」という言葉も、音で「KA DE N」と聞いただけでは何のことか分からない。表記で見ると分かる。日本語をローマ字表記にしたらまったく、何のことか分からないだろう。日本語は表意文字であり、視覚的に訴える要素をもった文字ではないだろうか。

 

 

 

ここで改めて俳句にとって必要なものは、という疑問が提示され、それに対し

 

 

九堂さん

言葉である、とし、言語、エクリチュールについての理論。

 

それに対し関さん

言葉ではなく、シンボルによって支持された、実体と対応していないイメージである、とし、ラカンの「想像界、象徴界、現実界」の理論。

 

 

筆者、音声データを聞きつつも、聞取力(聴覚)不足、理解力(脳みそ)不足、により、上記の言語やラカンに関する哲学的論理的考察は、ここに記すことができませんでした。

ただ、こうした九堂さん関さんのやりとりの中で、関氏さんが九堂さんの俳句を二句取り上げ、一方を成功例、もう一方を失敗例として論じ、作者である九堂さん自らがそれを板書するというちょっと面白い事態があったので、記しておきます。

 

九堂夜想

(関さん成功評) ホネガイは漂う少女群島を

( 〃〃 失敗評) 日()の沖へ合掌泳ぎの王母らよ

関さん曰く、失敗句の方はすべてが視覚イメージに集約されてしまう、とのこと。

句の鑑賞は人それぞれなので、ここはあくまで例として、筆者は挙げたいと思うのですが、それにしても会の中でこのようなやり取りの起こるところが、ちょっと面白いなと思いました。なかなかないのでは。

筆者としては、失敗句の方も面白いと思うのです。日の沈む、あるいは昇る沖へ向かって数多の王母らが一斉に合唱しながら立ち泳ぎする景。視覚イメージで表しきれるのかもしれませんが、その景の意味するところは不明です。絵で表しきれたとしても、謎がある。そこに吸い込まれるようなところが、面白いと思います。王母という言葉が、単に「王の母」という意味だけではなく「亡くなった祖母」を表す点も、そしてそれらの人物が複数いるらしい点でも、まるで黄泉と現実の狭間(トゥオネラ)の風景のようだなと思うのです。

 

 

最後に、参加者の方からの興味深いお話しを―。

 

発達障害の子供に接するうえで、視覚の方が簡単であり、聴覚の方が上級です。紙で書いて示す方が簡単に伝わり、それができるようになってから聴覚で伝えることを教えていきます。

耳で聞いて言葉を理解する方が難しいのです、いろんな可能性を含めてしまうからです。

何をどうするのかちゃんと伝えるには書かれた文字の方が有効で、聞き言葉は、より常識(共通認識)が幅を利かせる世界なのではないでしょうか。

 

 

聞き違いがあるかとは思いますが、概ねこうした趣旨だったように思います。

筆者もこれには共感するところです。例えば英語を聞きとる際に感じることですが、言葉は発音される時、一つの音声の流れであると思います。それを「言葉」として把握するのは、その音声を「どこで区切るか(単語として)」にかかると思います。

「あえいおうかこうとな」

このような一連の音声があったとします。どこにスラッシュを入れて、語として区切るべきでしょうか。そこには、習慣として刷りこまれた、ある意味偏見としての言語常識が必要になってくると思うのです。

他、筆者としては、耳で聞いてすぐ意味のとれる句、良い例として「コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希」などは、非常に記憶に残りやすく、多くの方に親しまれやすい特徴があるように思ったのですが、こうした点についてはまた機会がありましたら改めて、と思います。

 

以上で、現代俳句協会勉強会 俳句バーサス 視覚VS 聴覚 のレポートを終わりたいと思います。

一番初めにも述べたとおり、音声データを頂いたうえでの筆記ではありますが、私の聞取り力、理解力という限界の範囲内でありますし、それぞれのパネリストの方の発言を伝えきれていない面、誤解している面など多々ありましょう。また、もっと議論の枝葉が伸ばせるであろう点も多々見られます。

それら各論は、優秀なパネリストである俳人の方々の発信に、お任せし、期待していきたいと思うのです。

 

会の後に九堂さんから、今回は惨敗だ!との感想があり。謙遜だろうとは思いますがやはり、テーマが漠然と大きすぎたために、各パネリストの皆さん、司会の方も、どのように進行したものか大変だったろうと思います。

 

参加者の方は女性が多く、ここに書ききれませんでしたが、沢山の興味深い発言がなされました。

感じたことには、もしかすると五感刺激に細かく敏感な感受性をもつのは男性よりも女性の方に多いのかもしれない、ということです。

同じテーマでもパネリストが女性であったなら、哲学的な方向ではなく、もっと違った、感覚としての話、具体的な刺激にどう感じ、どう影響されるかの話になったのかもしれません。

 

新たなパネリスト、テーマ設定を絞ってみたりなど工夫したうえで、

再度この「感覚」のテーマに取り組んでみても面白いのではないか。

そんなふうに思っている、筆者でした。

 

 

皆様、お疲れさまでした。そして、有難うございました、

 

                H25.9.16 佐々木貴子


現俳協 俳句バーサス視覚VS聴覚 レポート①前半 [俳句論]

現代俳句協会青年部勉強会 俳句バーサス 視覚 vs 聴覚

日時 2013年8月3日 13時30分~16時30分

場所 池袋勤労福祉会館第三、第四会議室 

 

パネリスト

視覚側   小山森生 九堂夜想

聴覚側   関悦史 四ッ谷龍

司会    田島健一

(敬称略)

 

 

 

もう一月以上前になりますが、現代俳句協会勉強会「視覚VS聴覚」に参加してきました。

視覚・聴覚という大きくて漠然とした範囲を取り扱うため、議論が哲学的で難解な方向にいってしまうのではないかという危惧、また、バーサス構造に適している話題かどうかという疑問が示されながらも、各パネリストの真摯な議論が戦わされ、また、参加者から非常に興味深い話が出されました。

筆者は、会を終えて直後は内容をまとめきれず、時間が経過するうちに記憶もだんだん薄れてしまって書けずにいたのですが、青年部のご協力を得て音声データを頂いたうえで、このレポートを書こうと思いました。

音声データをいただきそれを聞くことができて、大変恵まれた状況での筆記ではありましたが、まとめきれない部分、聞きとれない部分、理解の及ばない部分があり、書ききれなかったところ、また、再度音声で聞いても結局、自らの思い込みによって把握してしまっているところがたくさんあると思います。あくまで私一個人の感想、記憶、把握としてこれを書くものであるということを、お読み下さる皆様に一言、お伝えしたいと思います。

 

以後、おおよその議論の流れに沿って各パネリストの発言要旨を紹介してきたいと思います。

 

 

 

会は、視覚側小山森生さんの発表から始まりました。

 

 

小山森生さん

 

視覚と俳句との関わりについて

ものを見て俳句をつくる際(input)の視覚の問題と、それが実際作品として書かれた場合の表記上の問題がある。大体俳句作品は目で見たり、読んで入ってくることが多く、大抵視覚から入ってくるのではないか。声で読まれた句を聞く機会というのは、句会くらいしかないのではないか。

どういうふうに表記するかというのは、俳句が与える効果として大きな問題であると思う

具体例として自選句「椿咲く颯とをんなを追越せば」を引用し、俳句表記上の視覚的効果について述べたい。     

この句の景は、「女性が前を歩いている。追い越して、女性がいなくなった空間に椿が咲いている情景。それをオーバーに表現した。女性の後ろ姿に目を惹かれている男性心理」といったようなものである。通常は、「颯と」は平仮名、「をんな」は漢字表記するところだろうが、「女」と漢字表記すると、記号として女というイメージがぱっと入って来てしまう(入って来すぎる)と感じた。それを避け、女性が生身の肉体であることを強調したいがために、自分の感覚から平仮名表記の方が良いと思われた。「颯と」というのはこの句のフィクション的部分、ややオーバーに、芝居っ気をもたせて表現した部分であるので、漢字表記を選んだ。「椿咲く」という表現もまた、椿はもともと咲いていたのであるが、句のイメージを構成するために敢えて「咲く」と表現した。

 

 

関悦史さん

 

今回、視覚対聴覚というテーマで議論するにあたり考えたことには、現代では様々な視覚聴覚情報が氾濫しており、you tube などで簡単に様々な映像・音声作品を得ることができる。

俳句は単に視覚聴覚的な現実を映しただけではなくて(視覚聴覚を正確に映し取っただけではなくて)、言語作品の構造体である。その語が表す事物・事象の関係性の方が(俳句創作、鑑賞のうえで)重要といえないだろうか。

例えば、「水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 阿波野青畝」の句、同じ景を見て俳句をつくったとしても、「水ゆらし鳳凰堂は蛇泳ぐ」にしたら平凡な作品になってしまう。この例から示すように、目で見たものを言語化する時、どこに力点を置きどう構成するかに俳句の面白みがかかっているのではないか。

視覚情報、聴覚情報が溢れている時代に単なる情報、イメージの再現でいいのか、という疑問がもたれるところである。

 

 

九堂夜想さん

 

最初は絵画性・音楽性がテーマだったようだが、途中で視覚・聴覚と抽象化された。少々テーマが大きすぎるのではないかと思う。

まず、レジュメから様々な表記の工夫を凝らした俳句をいくつか紹介したい。

俳句表現にも、多種多様な表記上の工夫を凝らした句が存在する。

(筆者注:実際には20句超の作品が紹介されたが、一部を抽出して示します)

○すべて平仮名表記の自由律「うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火」

○一字空白「草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男」

○大胆なオノマトペ「きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 金子兜太」

○一部平仮名「たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる 阿部完市」

○高柳重信による多行形式2句(添付画像参照)

 重信多行.jpg

 

 N 貫く一列に人の名前が隠されている仕掛

 O シンメトリー構造

○九堂氏編集人のLOTUS誌から古田嘉彦さんの作品(添付画像参照)

(※光の入り方から、画像が不鮮明な部分があります。)

 古田1.jpg古田3.jpg古田2.jpg

 

フォントサイズや字体を変えた作品

阿弥陀くじのような図形

バツ印、丸印での囲みなど記号を駆使した作品

デザイン的な図と共に配したり、言葉をバラまいたような構図

 

このように視覚上、様々な表記の工夫を凝らした作品がある。自分自身は、こうして表記上視覚に訴えかけることに惹かれつつも、あくまで五・七・五を基にし、切りつめていった中での発露を念頭においているので、こうした視覚効果のある作品については、俳句以外のアート作品としての興味はあるものの、俳句としてみた時には少々の疑いがある、という見地である。

 

 

 

司会者田島さんから

ここまでの、視覚側の発表をまとめると、大きく分けて「ものを見る」話と「表記」の話が出されている。主に表記の話がなされたわけであるが、ものを見る話になった場合、少々哲学的な話しになってしまうかもしれない。

次は聴覚のお話を伺いたい。

 

 

 

四ッ谷龍さん

 

感覚は重要であり、我々は感覚を意識しながら俳句をつくっているのではないだろうか。

私は、体の中にある視覚聴覚の話、俳句をつくるとき我々の視覚聴覚はどう働くか、表記の問題の前に身体としてもつ感覚が大事であり、そのような話をしたい。

 

視覚と聴覚の違い

A 視覚情報を取り込む機器―カメラ、ビデオ、スキャナー

  聴覚情報を取り込む機器―マイク

B 視覚から得られる情報―形・色・位置・奥行き・運動・明暗・膚ざわり

  聴覚から得られる情報―強弱・高低・音色(方向・リズム)

比較して分かるように視覚は多様だが音(聴覚情報)は刺激として常に一種類である。位置(方向)情報も、視覚の方がより強く正確に認識する―腹話術効果といって、見ている者は発信源を視覚情報の方に引っ張られて把握する―という事実がある。

(※ここで聴覚実験。四ッ谷さんは空調のスイッチを切った)

空調を止めると、続いていた音が止む。その時、我々は「空調が止んだ」ことに気づかないだろうか。つまり、聴覚とは連続性の認識に力をもつのである。

(※次に視覚実験。机の上に林檎があると想像してみよう、と呼びかけ)

想像したこの林檎はここに在るだろうか、心・頭の中に在るだろうか。

我々は林檎という言葉からイメージを心の中に起こすのであり、俳句をつくるときもこのようではないだろうか。

例えば散歩中見た薔薇を基に俳句をつくるとき、その場でというよりも家に帰ってつくることが多いのではないか。つまり、心の中にある薔薇のイメージを基につくっているのではないか。

視覚的な情報というものは必ずイメージとして集約される。

一方、聴覚というのは時間の中で認識されるものであり、音楽は時間的芸術といわれる。

また、聴覚の役割として、映像に音楽をつけると非常に感情が高まるが、音楽にミュージックビデオをつけても大して影響がなく、映画を音楽なしで見てみると非常に退屈になる。このように音楽には時間の流れの中で人の感情を高める働きがあるといえる。

俳句は感情の流れを映しだす形式ではなく、それはむしろ短歌の役割といえるだろうが、時間と共にながれる心をどのように俳句に表すかという点において、聴覚情報は重要なのではないだろうか。

 

 

関悦史さん

 

視覚・聴覚は一次情報としては重要であると思う。自分は今回聴覚側だが、自句には聴覚を扱った作品が少ないと思われるので、他の俳句作家の作品を交えながらご紹介したい。

音そのものよりもそれを言語化する手続きが重要である。

 

○厚餡割ればシクと音して雲の峰 中村草田男

シクという意外な音がたった異常さでもってリアリティをだした作品

○鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男

こきこきこきと三回重ねることによってオノマトペが物質感をもった作品

 

俳句における聴覚を考える時、モチーフとして実際に外界で立った音の問題、表記された音声の問題と交差しているように思う。それらを分けて話してもいいが、交差し、またがったところで話していかないと深い話しにならないように思う。その点で、草田男の「厚餡シク」の句や秋元不死男の「こきこきこき」の句は実際の音がモチーフになっているが、それらが言語化される際工夫が凝らされている点で、良い手掛かりとなろう。

 

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太

(内容はスローガン的で少々疑問がもたれるが、)

字余りが、定型の中に詰め込まれることによって弾力をもって跳ね返ってくる。

肉体性をもった言葉の韻律によって、句が生命力をもった。

 

思うに、「箱階段下りる足音新豆腐 桂信子」の句のように、聴覚を使って成功している句とは、音をもって現実感をもたせている句ではないだろうか。 モチーフとしての物音が立つことによって、リアリティの侵入が起こり、今まで忘れていた世界の実在(箱階段の存在など)が意識される。

また、聴覚を扱った句で実は「しずか」ということが一番訴求力が大きく、スケールの大きい世界を描くことができると思う。

「大地いましづかに揺れよ油蝉 富澤赤黄男」では、「静かだ」ということによって、静かでない世界、蝉の大音声を想像させる。

 

(前半の終、後半へつづきます)


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