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桟橋に布~宮本佳世乃氏鑑賞 [俳句鑑賞]

そういえば今朝も雑多な夢をみたな、と思いながら書き始めている。

「今朝」と言っても16時まで寝ていたのだが。

この夢がどの時点でみられてあの夢は何時に映写されていたものか、というのが分かると面白いな。

 

眠りすぎた日の夕は、軽やかな句集を手にとりたくなるものだ。

片手にやわらかくおさまる、まろやかな黄の句集は、宮本佳世乃さんの「鳥飛ぶ仕組み」である。

淡い色合いの世界を、シャガールの絵のようにすこし浮遊した足で散歩していくようなその句集は、見るとき、見るときで目に入ってくるものが違う。

いま私が気になる句は

 

 

七月の桟橋へ布掛けにゆく  宮本佳世乃

 

 

である。

さらりと読んで、これといった「仕掛け」はないように見える。俳句特有のレトリックだとか、逆説的な言い回しとか、飛躍させた表現など「操作」したようなところがなく、むしろ行為そのままを17字におさめたかのようだ。

しかし、一読してひっかかる。

なぜ、「布」を掛けにゆくのだろうか?この句は、布を掛けて何々する、何々のために布を掛ける、と目的は言っていない。

ただ布を「掛けにゆく」とだけ言っているのである。

 

この句の景としては、七月のある日、午前~正午くらいの何一つ曇りなく明るいときを、白い布をもった人物が海の桟橋へ向かうところが浮かぶ。

何か、7月くらいに、桟橋に布をかけるような行事があるのだろうか?

だとすれば、この句の読みはもっと定まったものになるのかもしれない。

しかし私は、そういった事情を全く知らないから、ただ布をかけること、その行為自体の意味へ深入りしていってしまう。

 

通常、私たちが何かに布をかける時、例えばそれを保護するため、寝ている人に布をかけるのは風邪をひかないようにするため、また、見られたくないものを隠すため、など様々な意図が考えられる。

自分にはふと、死したものに白布をかける、という行為が浮かんでしまった。

だとすればこの桟橋は、何故布を掛けられているのだろう。

死しているのでないにしても、布を掛けられるというのはなんだか、思いやり、優しさをいただいているような気がするのだ。

痛ましいなにものかを、布を掛けるという行為で優しくおおってあげる。

そうした印象が、白布の清かさとともに残る。

 

桟橋は海にかかる橋だ。7月の、もっとも夏の明るさを感じる時期、橋はきっと朗らかに輝いているだろう。その橋に、布を掛ける。

考えれば考えるほど、謎なのである。

ただ、優しさのような感じと、橋には何故か、布を掛けられる理由があるような気がする。

その謎に引き寄せられて、私はこの句が描き出す絵を度々脳内に映写し、見入ってしまうのだ。

 

もうすぐ7月だ。青森にもようよう夏がやってくるのだろう。

真青な海に明るく浮かぶ橋を見て、私も、ふと布を掛けてやりたくなるのだろうか。

 

 

 

ほかに気になった句は

 

ひまはりのこはいところを切り捨てる  宮本佳世乃

 

だ。

その話は、また別の機会に。

 

 

 

 

 


LOTUS句会レポート“藻の花” [LOTUS]

順不同にお届けしている、LOTUS句会レポート。

なにせ、私が何をきっかけにその句を思い出して

再味わい、再現、再実感状態になるか分からないから。

 

今回はアンドレイ・タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を観て。

その冒頭シーン、水草が流れの中にそよいでいる様をみたときこの句を思い出したのである。

 

 

藻の花やさきみだれたる母の舌  丑丸敬史

 

 

 

水中にそよぐ植物、その様をじっとみて、何ともいえない感覚を覚えることがある。

それは決して「ハレ」の感じのことではない。

ざわざわ、そよそよと、透明で陰の水に蠢くものを見、各人が心中にどのような像を結ぶかは、それぞれであろう。

この句の場合は、それが「母の舌」に象徴されていると読んだ。

藻の花自体、水生というところから陰の感じはあるものの、白い花であり美しいところもあるし、ハレ的な方向へ行く可能性も無きにしも非ずだ。

しかし、「舌」という言葉がもつ卑しくもあり淫靡さをも兼ね備えた象徴性が、暗いけれども静かな、水面下にざわざわと騒ぐ何かを、じっと見つめるような意識へと誘う。

 

 

ついには明言できる意味は形作らない。が、詩や俳句の味わいというものは、それで良いのではないかと思う。

 

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近年、極一部で「揺れる」他いくつかの言葉が「ポエム動詞」と呼称され、あまりよろしくない位置づけをされたことがあるようだが、私などはまさしくこの木々の葉、草花、水生のあらゆるものの「揺れ」からなんとも言えない「何か」を感じとってしまうのであり、

この言葉が単なる感傷や安易なロマンチシズムとされてしまうことは些か残念であると感じている。

揺れ、は大事だ。揺れ、以外の何に、何を感じるというのだろうか。

そこまで言ってみようか。

言ってみよう。

 

 

 

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毎度、租文にて、失礼します。

 

 

 


LOTUS 2月句会レポート ~まさかの円形俳句by鈴木純一~ [LOTUS]

 

LOTUS2月句会といえば、この句を取り上げないわけにいかないだろう。

このブログの書式では表記できないので下記に写真を。

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この句は「にしんほうの心あれば水はみがき 鈴木純一」

東西南北の北が開始の「に」東に「の」南は「れ」西に「は」もしくは「み」とくる配置で、最後「みがき(にしん)」と、つい続き読みてしまうところが、知らず知らず一巡を超え、この句の無限ループにはいってしまうというコワアイ俳句なのだ!

しかも「みがきにしん」といえばやはり思いだすのはあの安井浩司さんだ。安井さんのみがきにしんをこんな形で・・・私は呆然と立ち尽くし口から咀嚼も半ばの身欠きにしんをだらりと垂らすのみである(汚い)。

とまれ、俳句にこんな遊び方があるのだ。

例えばこの句を通常の一本書きにしてみたところで意味は全然通じない。

  にしんほうの心あれば水はみがきにしん  鈴木純一

分からないけど読んでしまう。しかもそれを円形にして「にしん(ミガキニシン)」から「にしん(二進)」へ繋げてしまうところは本当に呆然と口を空けるしかない代物である。

必ずしも北から読まなければいけないということもないのであって、この円形をじっとみているとどこからでも読んでしまいそうな不思議な誘惑と衝動に駆られる。

以下、句評集成より選者の評を抜粋。

吉村:

一行も多行も俳句なら、こんな形も許せるのだろう。円行とでも呼ぼうか。でも、何処から読んでも面白い。「ほう」=法と解釈し、仏教的な意味を感じた。

「二進法の心あれば水歯磨き」、「身欠き鰊法の心あれば水は」、「水は磨きに信法の心あれば」等々。

唯、いつも「心」と「水」が漢字表記で変わらない存在が佳い。ひらがな表記の力を借りて、読み手へのサービスを提供してくれているけれど、本当はどう詠んだのかを教えて頂きたいのだが、きっと、「ご自由に」と返事がくるのだろう。

北野:

円形俳句。身欠き鰊と二進法の掛詞がやっと分かった。大体、俳句はクイズではない!これは身勝手な私の八つ当たりでしょうか。

三枝:

一見すると円形を用いた言葉遊びの句のように思えます。「みがきにしん/ほう(法?呆?芳?)の心あれば水は」「水はみがき/にしんほう(二進法)の心あれば・・・」「しんほう(心法?辛抱?)の心あれば/水はみがきに」「う()の心/あれば水はみがきに・・」等々、どこから読んでも面白く、謎解きのような図になっています。それはそれで楽しいのですが、この句が呼び起こしてくれるものはそれだけではありません。この円形が生み出す始まりも終わりもないエネルギーは、俳句の本質を考えさせてくれます。「行きて帰る心」ということを図に示せばそれは多分このような円の形になると思います。俳句の面白さの本質は、何度読んでもついに説明することができない円環的な謎のような部分にある、ということをこの図は思い起こさせてくれます。

今回奇しくもNo.29でも「0」の文字が出てきました。「0」という丸い形は、ただそれだけで美しく完成され、またどことなく滑稽な感じもします。この句を多行俳句と読んでいいのかどうかわかりませんが、一行棒書きの俳句とは異なる世界を創りだし、円環、球体のもつ無限性やその不思議を感じさせてくれます。

以上。ちなみにNo.29の俳句で「0」を用いた句があったので三枝さんは上記のように言っているわけです。自分の句なんですが。

しかし、毎回面白いLOTUS句会です。

また、ちょくちょく書くかも知れません。

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