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LOTUS句会レポートvol.3 九堂夜想編 [俳句鑑賞]

LOTUS句会レポートの最後は編集人 九堂夜想氏の俳句についてご紹介し、鑑賞してみたい。

難解との評を聞くことの多い九堂夜想俳句。しかし私は彼の俳句の言葉群からもろもろのイメージを導き出し、勝手に想像するという楽しみ方をしている。その空想による鑑賞が、作者の意図に沿ったものかどうかはまったく分からない。が、九堂氏の俳句には、正確に読み取ることや共感すること、表されたメッセージを称賛することよりも、めいめいが勝手にそこから想像を広げて、新たな、もしくは独自の世界をみつける、そういう楽しみ方が許されているように思うのだ。

 

 

 

雲少し咳く遠の草少女   九堂夜想

 

 まず一句目は、こちら。

「雲少し」で切るか「咳(しわぶ)く」で切るかによって誰が行為するのかが変わってくる。つまり、雲が咳くのか、草少女が咳くのか、人によるだろうが、私は迷わず「雲が少し咳く」方をとった。

草少女とは造語であろうが、草原の中に佇む少女を想起させる。句の最初においては、雲そのものの視点、空の高きよりの視点であるが、遠の、ときて遥か下方を見渡し地上に居る少女を発見する。そして上空からの少女の発見は、句の最後で少女そのもののクローズアップに変り、また主体が少女へ移動するように感じる。

雲からの視点、つまり雲という主体、を見出すのは最初に書いた切れの位置のためと思う。「雲が咳く」という一種幻想的な読み方を選択したため、この句が描き出す画に少々の異世界的要素が加わったのだ。

雲、というものが人間性をもって咳きこんだりする、そのような世界は、童話や絵本の中でみられる世界ではあるまいか。雲が人間性をもつという世界では、草少女も、単に草原の女の子としてではなく、なんだか人間世界の秩序道理をすこしだけ踏み外した力をもつ、まるで雲と対話できるかのような、そんな少女のように思えてくる。

一句全体を、牧歌的なやわらかさ、懐かしいようなやさしさが覆っている。

 

 

 

日文もて影を梳かんか奴草   九堂夜想

 

前出の句と同じく、草がモチーフになっている作品である。

読み手としてはこの句、まずそれぞれの単語の意味が気になるところだ。

日文(ひふみ)とは漢字の渡来前、日本で使用されていたとされる、いわゆる神代文字の一であるらしい。それが「影を梳く」という。こちらの指す内容も気になるところだが、私はこの行為を正確に把握しようとするよりも雰囲気的に捉えてみた。また、奴草とはどういう植物なのか。調べてみると、ヤッコソウ科の寄生植物、太い肉質の根茎に鱗片状の葉が十字形に対生し、形が奴凧を思わせる、とのこと。画像で確認すると少々グロテスクなようにみえた。ちなみに吉岡實晩年の唯一の句集名が「奴草」であったらしい。

このように様々、意味的に解釈するための情報があり、自身も最初は奴草の形状からこの句の意味付けをしようとしていたのだが、最終的に、奴草の実状―見た目のグロテスクな印象や寄生するという生態―を離れ、造語的に捉えた。つまり、古代において下働き、下男として存在し奴と呼ばれていたであろう存在、職業的存在、それが精霊として草に結実したもの、と想像したのである。「奴」という職業的属性そのものを一つのキャラクターとして、私は読んでしまったのだ。

そうするとやわらかで、懐かしさのある光景がひらけてくる。

「奴」は古代、下僕として様々な仕事に従事していた。日常として繰り返していたその営為の残像が地に残り、いまや人ではない奴たちは、現世と違う次元において、しかしやはり奴としての仕事を日々繰り返している。その精霊の仕事としての「影を梳く」なのだ。

これはかなり特殊な読み方であろうということを自覚せざるを得ない。奴が精霊として草に結実するという発想が一般的なものとは、とても思われないからである。私がこのように発想する基底に、「街が記憶する」という考え方がある。街のみならず、場所が、土地がということである。どこか知らない街、見慣れた街でもかまわないが、その場所自体に、遥か昔から繰り返されてきた営為の残像が残っているように感じたことはないだろうか。奴草が存在するであろうその土地そのものが、ある意味での意識、大きな主体となり、奴という浄化された思念を残しているように思ったのである。

 

 

上記の二句に対するような、童話的解釈をするのは読み手としての私の個人的性質に因るところが大きいだろう。このような解釈や発想が一般的なものとはとても思われないし、自分自身飛躍しすぎていると思わざるを得ない。作者がこの句を書いた意図はまったく別のところにあり、受け手である私が言葉という素材から勝手に料理して自分好みの味に仕上げてしまったのだろうと思う。しかし、これらはなんとも想像力を刺激する言葉群であり、作品ではないか。

 

九堂夜想俳句が描き出す主体には、必ずしも生物や無機物の一個一個だけではなく、何か全体的なもの、空間や時間を包摂するものが含まれているような気がする。

LOTUS句会レポートvol.2 日盛の俳談議であげた「妹這うや硯に立てる天眼を」という句も、「立てる」は「誰かが硯のうえに天眼を立てている」のではなくてむしろ「天眼という意識自体が硯のうえに(自発的に)立っている」のであると解釈する。ヒト、の存在を抜きにし、型枠を脱落したものの抽出。そこに人間性はあっても人物はいない。そんな読み方もあっていいのではないだろうか。

 例えば

 

   万劫は硝子建築とぞ沈む  九堂夜想

 

の句は、巨大な硝子建築がずずずと沈みゆく、しかしそれがまるで万劫という長い長い時間の可視的、質量的表現であるかのように思わせられる。

 

   四大あれ蟇のまひるを戴冠し  九堂夜想

 

では、蟇が真昼そのものを戴冠しているようにみえる。なにかちっぽけなもの、限定されたものではなくて、真昼の空気空間そのものを、王者として堂々とまとっている、小さな生き物の姿が眼に浮かぶのだ。(こちらは蟇が行為主体だが、戴冠しているものの把握が大きい)

 

 

 

半眼の聖一物の一霏々と  九堂夜想

 

最後に、この句が私の一番好きな九堂夜想俳句だ。

半眼、とは半ば開いた眼のことであり、仏像の眼がよくこの形状で造られている。この導入部によって仏に繋がるイメージを想起させるのだが、続く語が~(の)聖一物とあり、一瞬はてなマークが頭に点灯する。聖一物とはなんぞや。想像できる語の区切り方としては聖・一物つまり聖なる一物ということになる。しかしなに?このような語の作り方があるのだろうか、と訝しんだが、美魔女など美○○が美しい○○という意味で語を成すのと同様に、聖○○という言い方が、聖水、聖火などの一般に通用した言い方の他にもあって良いのかもしれないと思い、ここは聖なる一物、男性のシンボルとしての、と解した。ここまでで、この句から読みとれるのは半眼という語が導入する仏、または仏のような聖なる人物、その男根のことである。

では、と読み進み次なる壁にぶつかる。はて。一霏々と、とはなんぞや。霏々というのは無論、雪や雨などがしきりに降る様のことだ。霏々というからには何かが降っているのだろう。雪か雨のようなものが。としばらく考えるが、一という語が英語においてoneと、代名詞的に用いられることを思いつき、つまり一物の一、ぼかして言っているが、本来不浄とされる体から導き出されるなにか、を発想するにいたった。また、雪の降りはじめ、もしくは、烈しくなりだし、はらはらと散っている景が浮かんだ。

仏とはいえ、体として持つべきものは持っている。しかし上空を霏々と飛んでいるのは白い雪である。

仏という人間を思わせるもののフィルターをとおして、雪の降る天、巨大な空間への転位を起こしているように思う。

 

 

さて、このように書いてきて思うのは、九堂夜想の俳句を読むにあたり、その作品を書いた人物、ことにその心情や具体的状況を想定する必要はあまりないのではないかということだ。むしろ、言葉を言葉として捉え、言葉の中に入って空想を進めた先に何か見えてくるものがある。それは、読み手のなかに結晶する真実の一つかもしれないし、あるいは、もしかすれば作者自身すら気づいていない、作者の真実にぶちあたるかもしれない。

いずれにせよ、一見して分からない、が、妙に心にひっかかる、その言葉群を見つめて想いを馳せているうちに、思いもかけなかったところに至る。それが九堂夜想俳句の、大きな魅力なのである。

 

今後もこの作家に注目。動向を見守りつつ機会があれば妄想スレスレの鑑賞を書いてみたいと思っているが一言だけ

夜想氏、痩せすぎ、注意!

以上であります。礼

 

 

 

 

 

 

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コメント 4

山咲臥竜

【総論】拝読。
俳句という詩型は多少なり読者に負担をかける文芸である。ふと黛まどか氏の言葉を思い出した。「言葉は放り出してもいい。あとは読者が作りあげてくれる」。勿論、俳句は読者に委ねるところが大きいが、今回はその「放り具合」について考えさせられた。もちろん作者によってスタンスは異なるだろうし、時流もある。またそういう一角があっても良いと思う。ただ全体が同じように靡けば、俳句と一般人との乖離は大きく、深くなるのではという危惧を抱かざるを得ない。
by 山咲臥竜 (2012-09-24 14:02) 

sasakitakako

コメントをありがとうございます。
一般人、というお言葉の指す範囲や乖離という事態の具体的イメージ、またそれが引き起こす問題点(問題があるのかどうかも含めて)、をどのようにお考えなのか、この文面だとまだ分かりませんので、コメントは差し控えさせていただきますが、私の言いたいのは、こういう楽しみ方もあり、やってみたいことを、型枠を度外視してエイやっ!とためせる場所があるよ、ということでした。
いろいろな議論を、ぜひLOTUS誌上にて思いっきりご披露していただきたく、拝見したく思います。

                   佐々木拝
by sasakitakako (2012-09-24 21:37) 

山咲臥竜

【補足】一般人=俳句と関わりのない人々。乖離(この場合)=俳句と関わりのない人々が「俳句は難しい」と敬遠し、なだらかな裾野を形成するのではなく、断絶が生じること。
…くどい説明申し訳ありません。
その反面、佐々木様の意見に同意しているのも事実であり、決して意見は相反するものではないことを改めてお伝えします。
 文章が拙い上に、「総論」としたことにより、まとまりに欠ける内容になってしまいました。
 誤解を招き、大変申し訳ありませんでした。
by 山咲臥竜 (2012-09-25 00:34) 

sasakitakako

ご返信有難うございます。
なるほど、と理解致ししました。
言い表すのが難しいですが、挑戦しようとか新しいところを切り拓こう、という意欲なしに、徒に分かりにくい俳句が乱造されて(笑)流行ってしまう。そんな事態を想像してしまい、それは確かに望ましくないなと。。そういうことが行き過ぎると、ただ珍奇な言葉を羅列すればいいのかということにもなってしまいそうですし。
ネット上、言葉だけのやりとりは非常に難しいですし、それでなくとも議論の際には、ちょっとしたことがきっかけで思わぬ誤解を生じ、不毛の結果になってしまうことが少なくないので、わたしも、すこし慎重になってみたのでした。(笑)

ご意見、大変ありがたく頂戴します。
by sasakitakako (2012-09-25 19:46) 

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